アルディア王国の未来
森を震わせていた轟音が、ふいに止んだ。
砕け散った岩肌から砂煙が舞い上がり、折れた木々があちこちで軋む音だけが静かに響いている。第四騎士団第四席ハルント・イスは、その光景を黙って見つめながら、無意識のうちに槍を握る手へ力を込めていた。
勝敗はまだ分からない。
それでも、あの戦場へ自分が踏み込めば足手まといになることだけは理解している。
超越者同士の戦いとは、それほどまでに別次元の世界だった。
やがて、立ち込める土煙の向こうから一つの人影がゆっくりと姿を現す。
「……戻ってきたか。」
現れたのはリリアだった。
制服は無残に裂け、全身には無数の斬り傷が走っている。左腕は力なく垂れ下がり、呼吸も浅い。歩くたびに足元へ血が滴り、誰の目にも重傷だと分かった。それでも少女は倒れることなく、一歩ずつこちらへ歩いてくる。
ハルントはすぐに駆け寄ると、腰へ提げていた軍用の止血薬と薬草を取り出し、そのままリリアへ差し出した。
「使え。」
「ありがと。」
受け取ったリリアは笑顔のまま薬草を傷口へ押し当てる。その様子を見届けてから、ハルントは静かに尋ねた。
「黒雷は。」
リリアは短く答えた。
「倒したよ。」
それだけだった。
戦果を誇る様子もなければ、自慢する気配もない。ただ事実を口にしただけである。
ハルントは森の奥へ静かに視線を向けた。
風に揺れる木々。
大地を抉る巨大な裂け目。
半径数百メートルにわたって薙ぎ倒された森林。
そこには、つい先ほどまで超越者二人が激突していた痕跡だけが残されていた。
「……これほどとは。」
思わず額へ汗が流れる。
ゼクト・ヴァルガン。
カルドニア王国第八位、《黒雷》。
その強さは噂どおり、いや、それ以上だった。
もしあの場へ立っていたのが自分ならどうだったか。
勝てただろうか。
いや、とハルントは心の中で首を振る。
勝てない。
良くて相打ち。
その相打ちに持ち込めれば幸運と言っていい。
おそらく、それすら難しかっただろう。
そんな相手を、目の前の少女は討ち取ったのである。
「化け物め……。」
誰にも聞こえないほど小さな呟きだった。
リリアはその言葉を聞かなかったのか、あるいは聞こえても気にしなかったのか、小さく笑うだけだった。
やがて兵士達の待つ場所へ戻ると、二年Sクラスの面々が一斉に駆け寄る。
「リリア!」
クリスティーナが真っ先に肩を支え、セシリアは慌てて止血薬と包帯を取り出した。
「左腕が折れてる!」
「肋骨も何本かいってるわ。」
傷の状態を確認しながら、クリスティーナがリリアの身体を支える。セシリアは傷口へ止血薬を塗り、手早く包帯を巻いていく。ノアは周囲の警戒を続け、エドワードも森の奥へ視線を向けたまま、いつでも動けるよう剣から手を離さなかった。
誰も取り乱してはいない。負傷者への対処など、彼らにとっては日常の延長だった。
その様子を見守っていた兵士達は、ようやく恐る恐るハルントへ尋ねた。
「ハルント様……まさか。」
ハルントは静かに頷く。
「黒雷ゼクト・ヴァルガンは討ち取られた。」
その一言で、その場の空気が凍り付いた。
「討ち取った……?」
「カルドニア第八位を……?」
「学生が……?」
兵士達は互いの顔を見合わせ、誰一人として言葉を続けられない。
信じられなかった。
西大陸でも名を知らぬ者はいない上位超越者が、騎士学校の学生に敗れたなど、常識では考えられない出来事だったからである。
しかし、その隣では全く違う空気が流れていた。
「姫なら当然です。」
アレスはどこか誇らしげに頷き、クリスティーナは苦笑しながらリリアの額を軽く小突く。
「勝つのはいいけど、怪我をし過ぎよ。」
「うーん、思ったより強かった。」
悪びれもせず答えるリリアに、エドワードは肩を竦めた。
「次はもう少し綺麗に勝ってください。」
「努力する。」
そのやり取りを見ていた兵士達は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
彼らにとっては歴史に残る大戦果である。
だというのに、この学生達は誰一人として驚いていない。
まるで勝って当然と言わんばかりだった。
ハルントはそんな二年Sクラスの姿を静かに眺め、小さく笑みを浮かべる。
一人の怪物が王国を支える時代ではない。
怪物を当然のように受け入れ、その隣へ並ぼうとする若者達が育っている。
(アルディア王国の未来は……思っていた以上に明るいかもしれんな。)
そう思いながら、彼は再び北の空を静かに見上げた。
一方その頃。
戦場から数キロ離れた森では、ゼクト直属の部隊が静かに待機を続けていた。
誰も焦ってはいない。
むしろ落ち着いていた。
轟音は途切れることなく森の奥から響き続けていたが、そのたびに木々が揺れ、大地が震えても、歴戦の兵士達は表情一つ変えなかった。
「始まりましたね。」
若い副官が呟くと、隊長格の男は腕を組んだまま頷く。
「ああ。」
「二対一になれば流石に危険だが、閣下なら問題ない。」
その口調に迷いはない。
黒雷ゼクト・ヴァルガン。
彼の真価は圧倒的な速さにある。
一瞬で間合いを詰め、一瞬で離脱する。その機動力だけなら、カルドニアでも右に出る者はいないと信じられていた。
だからこそ、仮に分が悪くなったとしても生きて帰ってくる。
直属の部下達は、それを疑っていなかった。
一方、後方へ待機させられていた囚人兵達は違う。
森の奥から響く轟音を耳にした瞬間、一人、また一人と顔色を変え始める。
「今しかねぇ……。」
誰かが小さく呟いた。
その言葉が合図だった。
「逃げろ!」
「今なら誰も見てねぇ!」
三百人近い囚人兵が、一斉に森へ散り始めた。
北へ。
西へ。
それぞれ生き残るためだけに走る。
直属部隊の兵士達は、その様子を見ても動かなかった。
所詮は使い捨ての兵だ。
逃げたところで追う価値もない。
「好きにさせておけ。」
隊長格の男が静かに言う。
「閣下が戻ればすぐに終わる。」
その瞬間だった。
前方の森から、小さな音が聞こえた。
――ドサッ。
一人の囚人兵が倒れる。
誰かに斬られたようにも見えない。
悲鳴すら上げる暇もなく、その場へ崩れ落ちた。
続いて二人。
三人。
十人。
まるで見えない何かが森を駆け抜けているかのように、逃げ出した囚人兵達が次々と地面へ倒れていく。
「何だ……?」
兵士達が初めて表情を変えた。
異変はそれだけでは終わらない。
森の至る所から鈍い音が響き、そのたびに一人、また一人と命が消えていく。
悲鳴はほとんど聞こえない。
抵抗する声もない。
ただ、人が倒れる音だけが静かな森へ響き続けていた。
歴戦の兵士達でさえ、その光景を理解できなかった。
やがて森は再び静寂を取り戻す。
逃げ出した三百人。
誰一人として走る音は聞こえなくなっていた。
その静寂の中、一人の男が森の奥からゆっくりと姿を現す。
白い仮面。
全身を黒い外套で包み、年齢も素顔も分からない。
ただ一つ分かるのは、その場に立っているだけで空気が張り詰めることだけだった。
直属部隊の兵士達は反射的に剣へ手を掛ける。
だが、抜けない。
本能が告げていた。
抜いた瞬間、自分達は死ぬと。
仮面の男は彼らを一瞥すると、感情の感じられない声で短く告げた。
「学生達に手を出すな。」
それだけだった。
次の瞬間、男の姿は風に溶けるように消え失せる。
誰一人、その動きを見ることはできなかった。
長い沈黙が流れる。
やがて隊長格の男が静かに息を吐いた。
「……確認しろ。」
命令は短かった。
直属部隊の兵士達は素早く森へ散り、それぞれ倒れた囚人兵を調べ始める。
しばらくして、一人の兵士が戻ってきた。
「全員……死亡しています。」
別の兵士も報告する。
「急所を一撃です。」
「抵抗した形跡もありません。」
さらに別方向から戻った兵士も首を横へ振る。
「こちらも同じです。」
報告が重なるたび、隊長格の男の表情は険しくなっていく。
三百人。
その全員が、ほぼ同じ時間に命を落としていた。
戦場を幾度も潜り抜けてきた彼らだからこそ分かる。
これは虐殺ですらない。
処刑だった。
「……本国へ報告する。」
隊長格は即座に判断した。
「ゼクト閣下の安否確認を急げ。残りは馬を飛ばせ。最優先事項は二つだ」
兵士達が一斉に姿勢を正す。
「黒雷ゼクト・ヴァルガン二人の超越者と戦闘。」
隊長格は一度言葉を切り、仮面の男が立っていた場所へ静かに視線を向けた。
「そして……正体不明の超越者が出現した。」
その命令を受けた騎兵達は即座に馬へ飛び乗り、カルドニア王国本国へ向けて全速力で駆け出していった。




