超越者対超越者
リリアが一歩前へ出ると、ハルントは静かに槍を下ろした。
「本当に一人でやるつもりか。」
「うん。」
振り返ったリリアは、普段と変わらぬ笑顔を浮かべていた。
「大丈夫。」
そう言ってゼクトへ視線を向ける。
「あの人の目的は私だもん。」
「兵士さんたちが残れば巻き込まれるし、守りながらじゃ本気で戦えない。」
少し照れくさそうに笑って続けた。
「一人なら守る人もいないし、本気で戦えるから。」
その笑顔は穏やかなままだった。
だが、その言葉に込められた覚悟だけは重い。
ハルントは少女を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
この距離なら、自分はいつでも戦闘へ割って入れる。
少しでも押されるようなら、自ら前へ出ればいい。
そして何より――。
この少女が本気で剣を振るう姿を、自分の目で見ておきたい。
王国中で"次世代の英雄"と呼ばれる天才。
その実力が本物かどうか、この機会を逃せば二度と見られないかもしれない。
数秒の沈黙の後、ハルントは小さく息を吐いた。
「……死ぬな。」
「もちろん。」
軽く手を振るリリアを最後に見届けると、ハルントは兵士たちの後退を確認するため、その場を離れた。
だが完全には離れない。
槍を握ったまま、いつでも踏み込める距離で二人を見据え続ける。
やがて街道に残ったのは、リリアとゼクトだけだった。
二人の間には百メートルほどの距離がある。
風が吹く。
木々が揺れ、落ち葉が静かに舞い上がった。
ゼクトは口元を歪める。
「まさか学生が一人で残るとはな。」
リリアは剣を抜きながら笑う。
「一人の方が戦いやすいんだよ。」
瞬間、ゼクトの全身から黒い雷が噴き上がった。
轟音。
魔法ではない。
肉体そのものから溢れ出した能力が黒い稲妻となって全身を包み込み、周囲の空気が悲鳴を上げるように震え始める。地面を走った黒雷は街道へ無数の亀裂を刻み、近くの木々を一瞬で黒く焦がした。
「なら遠慮はいらんな。」
次の瞬間、ゼクトの姿が消えた。
いや、消えたようにしか見えなかった。
黒雷を纏った身体は音を置き去りにするほどの速度で加速し、一瞬でリリアの眼前へ迫る。
拳が放たれる。
その一撃だけで数十人を吹き飛ばすと言われる黒雷の拳。
大気が弾け、衝撃波だけで街道脇の大木が何本も根元から折れ飛んだ。
だが、その拳は空を切る。
「遅いよ。」
耳元で声がした。
ゼクトが目を見開く。
いつの間にかリリアは背後へ回り込んでいた。
振り返るより早く剣が閃く。
銀色の軌跡が黒雷を切り裂き、ゼクトの肩口から鮮血が舞った。
遠くから戦いを見守っていたハルントの瞳がわずかに見開かれる。
(速い……。)
自分なら反応できる。
だが、反応できることと初撃を躱せることは別だ。
黒雷ゼクトの神速を、あの少女はまるで見えていたかのように避け、その上で反撃まで叩き込んだ。
思わず槍を握る手へ力が入る。
戦況は互角。
そう判断し、ハルントは静かに二人を見据え続けた。
「面白い!」
ゼクトは笑った。
黒雷がさらに激しく唸りを上げる。
今度は両腕へ雷を集中させると、拳を連続で叩き込んだ。
轟音が何度も森へ響き渡る。
一撃ごとに地面が砕け、土砂が吹き上がり、周囲の木々が巻き込まれて倒れていく。黒雷は大地を焼き、草原は瞬く間に焦土へ変わり始めた。
リリアはその全てを躱し、時に剣で受け流しながら距離を詰めていく。
しかし完全には避け切れない。
黒雷をまとった拳が左腕を掠めた瞬間、骨が軋む嫌な音と共に身体が大きく吹き飛ばされた。
数本の木をへし折りながら地面を転がり、ようやく停止する。
左腕はだらりと垂れ、肋骨にも鈍い痛みが走る。
折れている。
その瞬間、ハルントの目が鋭く細められた。
一歩。
無意識に前へ踏み出す。
介入するべきか。
その判断が脳裏を過った。
だが、リリアはゆっくりと立ち上がる。
折れた左腕を庇いながら、それでも剣先は少しも揺れていない。
その姿を見たハルントは踏み出した足を止めた。
(まだ戦える。)
その判断に迷いはなかった。
リリアは小さく笑う。
「やっぱり強いね。」
「当然だ!」
ゼクトは勝ち誇るように笑い、さらに黒雷を爆発させる。
「俺はカルドニアの超越者だ!」
「学生風情とは経験が違う!」
再び激突する。
剣と拳がぶつかるたびに衝撃波が周囲を薙ぎ払い、街道は原形を失っていく。巨大な岩は粉々に砕け、森は一本、また一本と倒れ、土煙が空高く舞い上がった。
その激戦は十分近く続いた。
最初は互角だった。
だが、時間が経つほどに均衡が崩れ始める。
ゼクトの息が乱れる。
肩で呼吸をしながら距離を取った彼は、自分の身体を見下ろした。
胸。
脇腹。
右脚。
いつの間にか斬り傷が増えている。
対するリリアも満身創痍だった。
左腕は折れ、右肩から血が流れ、肋骨も何本か折れている。それでも足だけは止まらない。
遠くから戦いを見守るハルントは静かに二人を見据えていた。
互いに深手を負いながらも、一歩も引かない。
少しでもリリアが押されるようなら介入する。
その考えに変わりはない。
だが、戦況はまだ互角だった。
ゼクトは初めて笑みを消した。
(……まさか。)
学生だと思っていた。少し強い程度だと思っていた。
だが違う。
目の前にいるのは、自分と同じ上位超越者だった。
しかも――。
(これほどとは。)
胸の奥に初めて焦りが生まれる。
勝てない。
そう判断した瞬間、ゼクトは迷わず踵を返した。
黒雷が爆ぜる。
能力を脚へ集中させ、一気に森へ駆け抜ける。
速度だけなら誰にも負けない。
それが黒雷ゼクト・ヴァルガン最大の武器だった。
「逃げるんだ。」
リリアは小さく笑う。
その瞬間、ハルントも一歩踏み出した。
逃走を許すつもりはなかった。
だが、その足はすぐに止まる。
リリアの姿がふっと掻き消えたからだ。
「なに……。」
思わず目を見開く。
追ったのではない。
黒雷の進路を読み切り、それを上回る速度で駆け抜けていった。
森の奥。
黒雷を纏って走るゼクトの前へ、一人の少女が静かに立っていた。
「なっ……!」
信じられなかった。
追いつかれた。
いや、それどころか先回りされている。
リリアは折れた左腕を庇いながら、右手で剣を静かに構える。
「終わり。」
その一閃は、あまりにも静かだった。
銀色の軌跡だけが森を横切り、次の瞬間、ゼクトの身体がゆっくりと崩れ落ちる。
黒い雷は音もなく霧散し、森を覆っていた圧倒的な威圧感も消えていった。
地面へ膝をついたゼクトは、自嘲するように笑う。
「学生に……負けるとはな。」
リリアは何も答えない。
静かに剣を納めると、その場へ膝をついた。
限界だった。
折れた骨が悲鳴を上げ、全身から力が抜けていく。
それでも、その視線だけは最後まで前を向いたままだった。




