師匠
部屋に静けさが戻ると、レインは小さく息を吐いた。
何が起きたのか、まだ頭の整理が追いつかない。
師匠の名を口にした瞬間、目の前の老婆は時間が止まったかのように固まり、次の瞬間には腹を抱えて笑い始めた。先ほどまで底知れない威圧感を漂わせていた人物と同じとは思えないほど、豪快で、どこか楽しそうな笑い声だった。
やがて廊下から軽い足音が近づき、扉が控えめに叩かれる。
「入るよ。」
返事を待たずに扉が開き、店番をしていた少女が木製の盆を持って姿を現した。
湯気の立つコーヒーを机へ置くと、そのままレインの向かいへ腰を下ろす。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
レインが礼を言ってカップを手に取ると、少女は待ちきれない様子で身を乗り出した。
「ねぇ、何を話したの?」
「え?」
「あんなに笑ってるお婆ちゃん、私初めて見たんだけど。」
レインは困ったように苦笑する。
「僕もよく分からないんです。師匠の名前を話した途端、急に笑い出して……。」
「師匠?」
「子どもの頃に育ててもらった人です。」
少女は感心したように何度も頷く。
「その人、有名な人なの?」
「どうなんでしょう。」
レインは曖昧に笑うしかなかった。
師匠は昔話を好む人ではない。
自分から過去を語ることもなく、レインも深く尋ねたことは一度もなかった。
少女は顎へ指を当て、小さく考え込む。
「でも、多分そうなんだろうね。」
「そう思う理由があるんですか?」
「お婆ちゃんね、昔の知り合いの話なんて滅多にしないんだ。でもさっき、『あの馬鹿、まだ生きてたのか』って笑ってたでしょ。」
レインは静かに頷く。
「あれ、多分だけど……すっごく仲が良かった人なんじゃないかな。」
「仲が良かった人……。」
その言葉は少し意外だった。
レインの中で師匠は、誰とも群れず、一人で生きてきたような人物という印象が強い。たまに飲み仲間が来るくらい。
だからこそ、昔を懐かしそうに笑う相手がいたという事実が、どこか新鮮に思えた。
少女はコーヒーを一口飲み、柔らかく笑う。
「お婆ちゃん、昔のことはほとんど話さないんだよ。でも今日は本当に嬉しそうだった。あんな笑顔、私も初めて見た。」
レインは窓の外へ視線を向けた。
夕陽はさらに傾き、ベルクハイムの街並みを赤く染め上げている。
「師匠にも……そんな人がいたんですね。」
「そりゃいるよ。」
少女は少しだけ笑う。
「誰だって若い頃くらいあるんだから。」
思わずレインの口元にも笑みが浮かんだ。
それからしばらくの間、二人は取り留めのない話を続けた。
少女は店へ訪れる変わった客の話を聞かせ、レインはベルクハイムへ来たばかりだと話す。
先ほどまで張り詰めていた空気が嘘のように和らぎ、小さな魔導具店には穏やかな時間が流れていた。
その時だった。
勢いよく扉が開く。
黒いローブを翻した老婆が、両腕いっぱいの書類を抱えたまま部屋へ入ってきた。
「ふぅ……。」
机へ資料を置くと、老婆は少女へ視線を向ける。
「おい。」
少女の肩がぴくりと震えた。
「……はい。」
「店番はどうした。」
低い一言だった。
怒鳴ったわけでもない。
だが、その一言だけで十分だった。
「あ……。」
少女は顔を青くし、勢いよく立ち上がる。
「ご、ごめんなさい!」
「店へ行きな。」
「はいっ!」
返事だけは威勢よく残し、少女は慌ただしく部屋を飛び出していった。
扉が閉まり、再び部屋にはレインと老婆だけが残る。
老婆は呆れたように小さく息を吐き、積み上げた資料を軽く叩いた。
「さて、待たせたね。」
老婆は机へ数枚の紙を並べ、その上へ一枚の地図を広げる。
そこには西大陸北部、カルドニア王国とアルディア王国の国境地帯が描かれ、いくつもの赤い印が記されていた。
「カルドニア王国について調べ直してきた。」
「大国としての説明ならいくらでもできる。アルディア王国と並ぶ西大陸屈指の大国で、軍も強く、抱えている超越者も多い。」
老婆は地図の一角を指先で軽く叩く。
「だが、今一番大きく動いているのは、この男だ。」
「カルドニア王国第八位の超越者、ゼクト・ヴァルガン。二つ名は『黒雷』。」
レインは地図へ視線を落としたまま、小さくその名を繰り返す。
「第八位……。」
「ああ。八番目とはいえ、カルドニア王国の超越者だ。そこらの将軍や超越者とは格が違う。」
老婆は淡々と続ける。
「今日一緒にいたナルも腕は立つ。だが、ゼクトと真正面からやり合えばまず勝てないだろう。ナルは有名だからね。元Sランク冒険者、そのくらいはあたしも知っている。」
脅すような口調ではない。
ただ事実を並べているだけだった。
「しかも、そのゼクトが向かった先がなんとも言えないね。」
「どこですか?」
老婆は国境付近の一点を指差した。
「アルディア騎士学校の生徒が、実習で向かう予定の前線近くだ。」
レインは思わず顔を上げる。
「……僕、アルディア騎士学校に在籍しているんですけど。」
老婆の視線が止まった。
「お前、騎士学校の生徒だったのかい。」
「はい。」
しばらく沈黙が流れる。
やがて老婆は呆れたように鼻を鳴らした。
「なら話は早い。向こうへ行って、ちゃっちゃと殺ってくればいい。」
「無理です。」
即答だった。
「何でだい。」
「目立ちたくないので。」
数秒、老婆はレインをじっと見つめる。
やがて堪えきれなくなったように口元を緩めた。
「……本当に、あの馬鹿の弟子だねぇ。」
そう呟くと、老婆は地図の上へ置いていた指を静かに離した。




