勝てない
裏ギルドを出た頃には、夕陽がベルクハイムの街並みを赤く染め始めていた。
ガイアスから渡された簡単な地図を頼りに歩くこと十分ほど。
賑わう中央通りを抜け、一本脇へ入った通りへ足を踏み入れる。こちらも人通りは決して少なくない。魔導具店や薬草店、古書店が軒を連ね、表通りほど派手ではないものの、学者や職人が多く行き交う落ち着いた空気が漂っていた。
「ここですね。」
ナルが足を止める。
その先に建っていたのは、一軒の小さな魔導具店だった。
古びた木製の看板。
色褪せた外壁。
店先へ並ぶ魔導具も決して多くはなく、初めて訪れた者なら、ごく普通の個人商店として通り過ぎてしまうだろう。
だが、ガイアスから受け取った地図には、間違いなくこの店が記されていた。
ナルは迷うことなく扉を押し開ける。
小さな鈴が澄んだ音を響かせた。
店内へ入ると、乾燥させた薬草の香りと古い本の匂いが鼻をくすぐる。
棚には大小さまざまな魔導具が整然と並び、年代物と思われる古書も何冊か積まれていた。
カウンターでは、レインより少し年上に見える少女が静かに本を読んでいる。
鈴の音に気付いた少女はゆっくりと顔を上げ、二人へ視線を向けた。
その瞳には年齢に似合わぬ落ち着きが宿っている。
だが、不思議なことに何も尋ねようとはしなかった。
「どうぞ。」
短くそう告げると、店の奥へ視線を向ける。
それだけだった。
ナルも事情を知っていたかのように頷き、レインへ小さく目配せする。
二人は店の奥へ進んだ。
細い廊下の先には一枚の木扉がある。
ナルが一定の間隔で三度ノックすると、すぐ内側から落ち着いた老婆の声が返ってきた。
「入りな。」
扉を開け、部屋へ足を踏み入れた瞬間だった。
レインの全身を、言葉では表せない違和感が駆け抜ける。
壁一面を埋め尽くす古い書物。
棚へ無造作に置かれた魔導具や薬草。
部屋全体には古紙と薬草の香りが漂い、不思議と落ち着く空間のはずだった。
それなのに――。
窓際の椅子へ腰掛ける一人の老婆からだけ、まるで別世界のような存在感が放たれていた。
黒いローブを纏い、静かにこちらを見つめる姿は、昔話に登場する魔女そのものだった。
しかし、本当に異様なのは、その姿ではない。
視線が合った瞬間、本能が静かに警鐘を鳴らした。
呼吸がわずかに浅くなる。
背筋を冷たいものが流れ落ちる。
巨大な魔物と対峙した時とも違う。
もっと静かで、もっと底知れない圧迫感。
(……底が見えない。)
今まで出会った誰とも違う。
師匠を思わせるほど、深く、果てが見えない存在だった。
老婆はナルには一瞥もくれず、最初から真っ直ぐレインだけを見つめている。
部屋に静寂が流れた。
どちらも口を開かない。
やがて老婆は小さく目を細める。
「お前……何者だい。」
突然の問いにも、レインは慌てることなく少しだけ考えた。
そして静かに答える。
「カルドニア王国について知りたいんです。」
老婆は返事をしない。
ただレインを見つめ続ける。
数秒にも、一分にも感じられる沈黙。
やがて老婆は小さく頷き、初めてナルへ視線を向けた。
「お前がナルだね。」
「はい。」
「今日はもう帰りな。」
ナルは一瞬だけレインを見る。
だが異を唱えることはしなかった。
ここまで来れば、この老婆なりの流儀なのだろう。
「承知しました。」
そう言って立ち上がると、レインへ軽く頷く。
「終わったら宿へ。」
「分かりました。」
ナルはそれだけ告げて部屋を出る。
店番の少女へ軽く会釈すると、そのまま店を後にした。
扉の閉まる音が静かに響く。
部屋にはレインと老婆だけが残った。
再び静寂が訪れる。
老婆は顎へ手を添えながら、どこか面白そうにレインを眺めていた。
「面白いねぇ。」
「え?」
「お前からは、普通の人間とは違う匂いがする。」
その言葉を聞いた瞬間、レインの脳裏へ自然と一人の人物が浮かんだ。
目の前の老婆と師匠は何一つ似ていない。
だが、人の本質を見透かすような空気だけは、不思議なほど重なって見えた。
「そういえば……。」
レインは小さく呟く。
「あなた、少しだけ師匠に似ています。」
老婆の目がわずかに細くなる。
「師匠?」
「はい。」
「名前は?」
レインは迷わなかった。
学園長にも一度だけ明かした名。
決して軽々しく口にしてはいけない、その人物の名を静かに告げる。
その瞬間だった。
部屋から音が消えた。
老婆は完全に動きを止めている。
数秒。
まるで時間そのものが止まったような静寂が続く。
そして次の瞬間――。
「あっはっはっはっはっ!」
腹を抱えるような大笑いが部屋中へ響き渡った。
その笑い声は表の店まで届き、店番をしていた少女が思わず顔を上げるほどだった。
「あの馬鹿……!」
「まだ生きてたのかい!」
笑いながら何度も机を叩き、涙まで浮かべる。
「しかも子育てだって!? あっはっはっ!」
ひとしきり笑い終えた老婆は、何度か深呼吸を繰り返してようやく息を整えた。
「最後に会ったのは……三十年ほど前だったかね。」
懐かしそうに天井を見上げる。
そう呟くと、老婆はゆっくり立ち上がり、壁へ掛けてあった黒いローブを羽織る。
「一時間だけ待ってな。」
「え?」
「カルドニア王国のことだったね。」
それだけ言い残し、老婆は部屋を出ていった。
静かに閉じられた扉を見つめながら、レインは何が起きたのか理解できないまま、小さく息を吐いた。




