裏ギルド
《黒犬亭》へ足を踏み入れた瞬間、酒場の空気がわずかに変わった。
昼間にもかかわらず店内は多くの客で賑わっている。
傭兵、密輸商、裏商人、流れ者。
表の酒場では決して顔を合わせないような人間たちが酒を酌み交わし、低い声で仕事の話を交わしていた。
その中へナルが姿を現す。
「……ナルか」
「久しぶりじゃねぇか」
「あいつ、まだ生きてたのか」
あちこちから笑い混じりの声が飛ぶ。
ナルも片手を軽く上げるだけで応え、そのまま迷うことなくカウンターへ歩いていった。
奥では一人の大男が無言でグラスを磨いている。
筋骨隆々の体格。
頬を斜めに走る大きな古傷。
酒場の主人というより、戦場帰りの歴戦の兵士と言った方が似合う男だった。
「久しぶりです、ボルドさん」
その声に、大男はゆっくり顔を上げる。
「十年ぶりか」
「それくらいになります」
「相変わらず死に損ないだな」
「運だけは良いもので」
短いやり取りだった。
ボルドの視線がレインへ移る。
無言のまま数秒見つめると、ナルへ視線を戻した。
「連れか」
「信用できる」
それだけで十分だった。
ボルドは小さく頷き、カウンター奥の扉へ顎をしゃくる。
「通れ」
二人は扉の奥へ進む。
狭い通路を抜け、石造りの階段をゆっくりと降りていく。
地下へ着いた瞬間、そこには酒場とは別世界が広がっていた。
広い空間には長机が並び、壁一面には各地の地図や依頼書が貼られている。
地図へ木駒を置きながら何かを話し合う男たち。
密輸商と静かに金額を交渉する商人。
読み終えた依頼書を火へくべる情報屋。
誰も無駄話はしない。
酒場の喧騒が嘘のように静まり返り、それぞれが黙々と仕事をこなしていた。
「ギルド長」
ボルドが奥の部屋へ声を掛ける。
「客だ」
ほどなくして扉が開いた。
姿を現したのは白髪交じりの短髪の男だった。
右目には古傷が走り、左足をわずかに引きずっている。
しかし、その鋭い眼光だけは少しも衰えていない。
裏ギルド長、ガイアス・ローウェル。
若い頃は傭兵団を率い、ナルとも幾度となく同じ戦場を渡り歩いた男である。
「誰かと思えば……ナルか」
ガイアスは口元を緩めた。
「随分久しぶりじゃないか」
「ご無沙汰しております」
「立ち話も何だ。入れ」
三人は奥の個室へ入る。
扉が閉まると同時に、ガイアスは椅子へ腰を下ろした。
「それで、今日は何を知りたい」
「最近の裏の動きです」
ナルは迷いなく答える。
「特にカルドニア絡みを」
その言葉に、ガイアスの表情が少しだけ引き締まった。
「だったら、一つ面白い話がある」
部屋の空気が静かに変わる。
「ここ数か月、アルディア王国へ金を運ぶ依頼が異常に増えている」
「商取引では?」
レインが尋ねる。
ガイアスは首を横へ振った。
「違う。届け先は貴族ばかりだ」
『指定した人物へ荷物を届ける』
『ある貴族家へ金貨を運ぶ』
『仲介人を紹介する』
依頼人はすべて匿名。
だが、届け先だけは例外なくアルディア王国だった。
「依頼人は巧妙に痕跡を消している。だが金の流れを追えば、ほぼ間違いなくカルドニアだ」
「買収ですか」
ナルが静かに呟く。
「ああ」
ガイアスは苦く笑った。
「領地経営に困っている貴族。借金を抱えた貴族。地位を欲しがる貴族。そういう連中へ少しずつ金を流し、時間を掛けて内側から国を腐らせる」
武力だけでは国は落ちない。
時には剣より金の方が恐ろしい。
ナルは腕を組み、しばらく考え込む。
「それ以上の情報は?」
「俺が掴んでいるのはここまでだ」
ガイアスは正直に答えた。
「もっと深い情報が欲しいなら、俺たちでは役不足だ」
「他に情報屋がいるんですか」
ガイアスは小さく笑う。
「情報屋というより……化け物だな」
その言葉に、ボルドまで苦笑した。
「裏の人間でも存在を知る者は少ない」
ガイアスは遠い昔を思い出すように目を細める。
「各国の王だろうが、大組織の幹部だろうが、本当に必要な時しか会いに行かん。下手な手土産を持って行けば門前払いだ」
「……そんな人物がいたとは」
ナルが静かに呟く。
「知らなくて当然だ」
ガイアスは頷いた。
「昔、その人を怒らせたマフィアがいた」
部屋が静まり返る。
「最初は三人送り込んだ。翌朝、その三人の死体がアジトの前へ並べられていた」
誰も口を挟まない。
「逆上した連中は今度は二十人を送り込んだ」
ガイアスは苦笑する。
「結果は同じだ」
ボルドが肩を竦める。
「それでも諦めなかった」
「ああ。最後は当時最強と言われた超越者の暗殺者まで送り込んだらしい」
ガイアスはレインへ視線を向ける。
「翌朝、その暗殺者もアジトの前へ返ってきた」
部屋に重い沈黙が落ちる。
「ただし、一つだけ覚えておけ」
ガイアスは人差し指を立てた。
「あの人は金じゃ動かん。宝石も魔導具も興味がない」
「では、何を対価に?」
ナルが静かに尋ねる。
ガイアスは笑った。
「面白い話だ」
「面白い話……?」
「ああ。あの人の興味を引く話、それだけが対価になる。だから会いに行くなら、何を話すかを先に考えておけ」
ナルとレインは顔を見合わせた。
どうやら、この国の本当の情報へ辿り着くには、まだもう一人、越えなければならない人物がいるらしかった。




