二年生卒業試験演習
アレクシスは報告書を閉じると、椅子から静かに立ち上がった。
無言のまま壁一面に広がる戦略地図の前へ歩く。
レインもそれに倣って席を立ち、その隣へ並んだ。
地図にはアルディア王国を中心に、フェルド公国、ライゼン自由都市連合、ノルガルト侯国、そして北方のカルドニア王国までが記されている。
部屋を包む空気が変わった。
学園長ではない。
長年、王国を支えてきた軍人としてのアレクシスがそこに立ていた。
「本題に入ろう」視線を地図へ向けたまま口を開く。
「明日、二年生は卒業試験演習へ出発する」
「北方ですか」
「ああ」
短く頷く。
「二年間の総仕上げじゃ。例年通り、各騎士団の管理下で北方各地へ派遣される」
エレアが言葉を引き継いだ。
「演習とは名ばかりです。実際は実戦任務に近いものになります。警戒、補給護衛、避難誘導……状況によっては戦闘も避けられません」
レインは黙って地図を見つめる。
ミルデン。
あの街で見た炎と血の匂いが脳裏をよぎった。
「……ただ」
アレクシスの声が低くなる。
「今年は例年通りとはいかん」
指先がノルガルト侯国へ触れ、そのままカルドニア王国まで滑った。
「今回の件で、カルドニア王国が裏で動いておることは、ほぼ間違いない」
「ですが、証拠はありません」
エレアが冷静に補足する。
「ナルの証言だけでは外交を動かす理由にはなりません」
「分かっておる」
アレクシスは苦笑した。
「だから演習は予定通り実施する」
レインはその言葉に視線を向ける。
「止めないんですか」
「止める理由がない」
即答だった。
「ここで予定を変えれば、こちらが何かを掴んだと相手へ教えるようなものじゃ」
その判断に迷いはない。
長年、王国を守り続けてきた経験がそう告げていた。
部屋に静寂が落ちる。
誰も口を開かない。
アレクシスは再び地図へ目を向け、小さく息を吐いた。
「……嫌な予感がする」
ぽつりと漏れた一言だった。
レインは何も言わない。
エレアも黙ったまま学園長の横顔を見つめている。
「根拠はない」
アレクシスは自分へ言い聞かせるように呟く。
「じゃが、嫌な予感ほど当たるものじゃ」
その言葉には、幾度となく戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ重みがあった。
ミルデン。
ノルガルト侯国。
カルドニア王国。
それぞれが一本の線で繋がりそうで、まだ繋がらない。
だからこそ、不気味だった。
アレクシスはゆっくりと振り返る。
「レイン」
「はい」
「ナルが王都へ着き次第、ノルガルト侯国へ潜入してくれ」
「潜入ですか」
「ああ」
アレクシスは頷いた。
「ナルは傭兵として国境を越えられる。お前は商隊へ紛れ込め。表向き、ナルはその護衛じゃ」
エレアが続ける。
「目的は戦うことではありません。現地で何が起きているのか、その目で確かめてください」
「カルドニア王国の影がどこまで伸びておるのか。それを知りたい」
アレクシスは真っ直ぐレインを見据えた。
「わしの勘違いなら、それで構わん」
一拍置く。
「……じゃが、もし嫌な予感が当たっておったなら、手遅れになる前に動かねばならん」
レインは静かに頷いた。
「承知しました」
短い返答だった。
しかし、その一言だけで十分だった。
アレクシスは満足そうに頷くと、再び北方へ視線を戻す。
ノルガルト侯国。
そのさらに北に位置するカルドニア王国。




