報告へ
学園長室の前で足を止めたレインは、帰還したばかりの身体へ残る疲労を感じながら、小さく息を吐いた。
ミルデンから王都まで三日。
騎乗訓練を兼ねた強行軍だったため、生徒達の疲労は相当なものだった。それにもかかわらず、学園へ到着したその日のうちに呼び出しである。どう考えても急ぎの用件なのだろうが、面倒事であることだけは間違いない気がした。
軽く身なりを整えると、レインは扉を叩く。
「入れ」
聞き慣れた声が返ってきた。
「失礼します」
一礼して室内へ足を踏み入れる。
執務机の向こうには学園長アレクシス・フォン・ヴァルハルトが座っていた。
しかし、レインの視線はすぐに別の人物へ引き寄せられる。
窓際に、一人の女性が静かに立っていた。
年齢は三十代前半ほど。
長い白銀の髪を後ろで束ね、黒を基調とした制服を身に纏っている。その姿は文官のようにも見えるが、同時に歴戦の騎士を思わせる隙のない佇まいだった。
ただ窓の外へ視線を向けているだけ。
それだけなのに、部屋の空気は自然とその女性を中心に張り詰めているように感じられる。
レインが入室すると、女性も静かに視線を向けてきた。
ほんの一瞬。
視線が交わった、それだけだった。
――強い。
その確信だけは一瞬で胸に刻まれる。
今まで出会った騎士達とも違う。
間違いなく学園長より強い。
そう断言できるほどの圧が、その女性からは静かに伝わってきた。
「座れ」
アレクシスに促され、レインは席へ着く。
アレクシスは女性へ視線を向けた。
「紹介しておこう。副学園長エレア・レインフォードじゃ」
女性は小さく会釈する。
「初めまして、レイン・クロード」
穏やかな声だった。
必要以上に感情を表へ出すことはない。それでも冷たい印象はなく、不思議と落ち着きを感じさせる声だった。
「元第三騎士団第二席。王国史上最年少でその地位へ上り詰めた超越者でもある」
さらりと告げられた一言に、レインはわずかに目を見開く。
第三騎士団第二席。
その肩書きだけで、この女性が王国でも指折りの実力者であることは十分に理解できた。
「今は、わしの養女でもある」
「その説明は必要ですか?」
エレアが呆れたように言うと、アレクシスは愉快そうに笑う。
二人のやり取りを見る限り、信頼関係はかなり深いらしい。
「さて、本題へ入ろう」
笑みを収めたアレクシスは、机に積まれた報告書へ軽く手を置いた。
「ミルデンの件じゃ」
報告書はかなりの枚数がある。
ノルガルト侯国兵士の捕縛、工作員の排除、河川での迎撃戦まで、すでに詳細な報告は届いているのだろう。
だからこそ、最初の質問は意外なものだった。
「お前は森で敵部隊を発見したな」
「はい」
「なぜ、その場で潰さなかった」
レインは少しだけ考える。
質問の意図は理解できた。
自分一人でも敵部隊を壊滅させることはできた。
それでも、そうしなかった。
「また来ると思ったからです」
アレクシスもエレアも口を挟まず続きを待つ。
「今回の敵を潰しても終わりではありません。ノルガルト侯国が諦めるとは思えませんし、仮に諦めても、今度はカルドニア王国が本格的に動くと思います」
レインはミルデンで見た街を思い返した。
要塞都市としての備えは十分だった。
兵士達も練度が高い。
だが同時に、平和が長く続いたことで危機感が薄れていたのも事実だった。
「ミルデンは少し危機感が足りなかったと思います」
静かに言葉を続ける。
「だから一度、痛みを伴う経験は必要だったんじゃないかと」
建物は焼かれた。
被害も出た。
それでも街は守られた。
そして次は、もっと強くなれる。
レインはそう考えていた。
しばらく静寂が流れる。
やがてアレクシスが小さく頷いた。
「軍人向きの考え方じゃな」
「そうなんですか?」
「学生なら、そこまで考えが及んでも実際に行動へ移す者は少ないでしょう」
今度はエレアが口を開いた。
「敵を見つけたら倒す。犠牲は出さない。それで思考が止まる者が大半です」
レインには、その違いが今ひとつ分からなかった。
アレクシスは椅子へ深く腰を預ける。
「実際、お前の判断は間違っておらん。西大陸は平和が続き過ぎた」
視線は壁に掛けられた地図へ向く。
「小競り合いや国境紛争はある。じゃが、国同士が本気でぶつかる大戦は長く起きておらん。その結果、多くの者が平和を当たり前と思うようになってしまった」
「フェルド公国も例外ではありません」
エレアが静かに続ける。
「今回の件で街は変わるでしょう。兵士も住民も、二度と同じ失敗は繰り返さないはずです」
レインは黙って頷いた。
自分も同じ考えだったからだ。
そこで、一つ思い出したように口を開く。
「そういえば、一つ報告があります」
アレクシスが眉を上げた。
「何じゃ」
「ナルという男を雇いました」
その瞬間、アレクシスとエレアの視線がレインへ集まる。
レインは構わず説明を続けた。
森で出会った元冒険者の傭兵であること。
カルドニア王国から依頼を受け、ミルデン襲撃が失敗した場合は自ら破壊工作を行う契約だったこと。
そして現在は、その契約を打ち切り、今後は情報収集役として協力してもらう約束を交わしたこと。
話が終わると、部屋は再び静まり返った。
「……ナル」
エレアが小さく呟く。
その表情には、わずかな驚きが浮かんでいた。
「知っているんですか?」
「有名人です」
エレアは頷く。
「冒険者時代から各国を渡り歩いていた人物です。軍属でも貴族でもありません。裏社会や傭兵の世界では、知らない者の方が少ないでしょう」
アレクシスも腕を組みながら頷いた。
「なるほどな。確かに情報収集役としては、これ以上ない人選かもしれん」
そう言って苦笑する。
「もっとも、普通は学生が雇う相手ではないがの」
レインは首を傾げた。
「使えそうだったので契約しました」
その返答を聞いたエレアは、一瞬だけ目を丸くした。
そして初めて、小さく笑みを浮かべた。
「……なるほど。本当に変わった人ですね」
その穏やかな笑みに、部屋の空気が少しだけ和らいだ。




