ミルデン9
川の向こう側――夕闇に沈み始めた森の奥。
ナルは木の幹へ背を預け、静かに戦場を見下ろしていた。
眼下ではノルガルト侯国軍が壊滅しつつある。
三百近い兵を投入した作戦だったが、結果は惨憺たるものだった。倒れた兵士があちこちに転がり、生き残った者たちも包囲網の中で次々と武器を捨てていく。
最初から最後まで、戦場はアルディア側に支配されていた。
「見事なくらい読み負けたな」
ナルは小さく肩をすくめる。
今回の作戦で、ノルガルト軍は主役ではない。
あくまで実働部隊だった。
街へ潜伏した工作員が放火と騒乱を引き起こし、その混乱へ乗じて兵站都市ミルデンへ突入する。
倉庫街を焼き払い、補給施設を破壊し、目的を果たしたら即座に離脱する。
都市を占領する必要はない。
兵站都市を麻痺させる。
それだけで北方戦線へ与える影響は計り知れなかった。
成功すれば大戦果。
失敗しても街へ混乱を残せれば十分。
そんな計画だった。
だからこそカルドニア王国は、もう一枚だけ切り札を用意していた。
保険。
それがナルだった。
超越者。
一人で戦局を覆せる存在。
ノルガルト軍が予定通りミルデンへ到達できなかった時のみ介入する。
それが今回請け負った依頼である。
もっとも、その保険を使うかどうかを決める時が、今まさに訪れていた。
ナルの視線は戦場中央へ向く。
巨大な剣を振るい、敵兵を次々となぎ倒していく男。
アルド。
アルディア王国第三騎士団第五席。
事前情報では、負傷によって前線を退いた元騎士団幹部。
その程度の認識だった。
しかし実際に目の前で戦う姿は、報告書の文字とはまるで違う。
巨大な剣が一振りされるたび、兵がまとめて吹き飛ぶ。
包囲しようとすれば切り崩され、距離を取れば一瞬で踏み込まれる。
戦場そのものを支配していた。
「あれは強いな」
ナルは素直に認める。
超越者ではない。
だが、限りなく近い。
少なくとも並の兵団長程度なら相手にならないだろう。
「……面倒な相手だ」
苦笑が漏れる。
本来なら、この場で自分が出るべきだった。
超越者が介入すれば戦況は変わる。
ノルガルト軍を全滅から救い出すことくらい、不可能ではない。
そう考えた、その瞬間だった。
ぞくり――。
背筋を冷たい何かが這い上がる。
心臓が大きく脈打ち、全身の毛穴が一斉に開いた。
「……っ!」
ナルは反射的に周囲を見回す。
何かがおかしい。
いや、何かがいる。
アルドではない。
あの男は確かに強い。
だが、この感覚の正体ではなかった。
もっと別だ。
もっと危険な何か。
戦場のさらに奥。
戦場から離れた、視界にも映らない場所。
そこから誰かが自分を見ている。
理屈ではない。
超越者へ至るまで幾度となく死線を潜り抜けてきた本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。
――戦うな。
――近付くな。
――逃げろ。
今まで味わったどんな危機よりも、その警告は強烈だった。
「……こりゃ、割に合わん」
ナルは苦笑混じりに呟く。
ノルガルト軍を助ける義理はない。
自分は傭兵だ。
依頼のために命を捨てるほど、殊勝な性格でもない。
「撤退だな」
………………
一方その頃、レインは川沿いの戦場へ到着していた。
戦いは、すでに終局を迎えている。
フェルド公国軍とアルディア騎士団は生き残った敵兵を拘束し、負傷者を運び出していた。地面には折れた槍や砕けた盾が散乱し、先ほどまでの激戦を物語っている。
勝敗は決していた。
だが、レインの視線は戦場へ向いていなかった。
「……いる」
小さく呟く。
森の奥から、僅かな気配を感じる。
殺気ではない。
敵意とも違う。
しかし、それは確かに強者だけが纏う気配だった。
ふと視線を向けると、少し離れた場所に立つアルドも同じ方向を見つめている。
レインは静かに目を閉じ、意識を一点へ集中させた。
次の瞬間。
目には見えない剣気が、一直線に森の奥へ放たれる。
それは斬撃ではない。
超越者だけが理解できる、明確な警告だった。
――見えている。
――逃がさない。
その意思だけを乗せた一撃。
森を駆けていたナルは、思わず足を止めかけた。
「……っ!」
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
全身の毛穴が総毛立ち、心臓が嫌な音を立てた。
アルドではない。
比べ物にならない。
「おいおい……」
思わず乾いた笑いが漏れる。
ようやく理解した。
本当に警戒すべき相手は、最初から別にいたのだ。
「冗談じゃねぇぞ……」
ナルは一切迷わず全力で駆け出した。
木々の間を風のように駆け抜ける。
進路を何度も変え、気配を殺し、岩場を飛び越える。
普通の人間なら視認することすらできない速度。
それでも安心感は欠片もなかった。
数分後。
森を抜けた先の岩場で、ナルは足を止める。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
目の前に、一人の少年が立っていた。
夕日を背に受け、静かにこちらを見つめている。
レインだった。
「先回り……したのか?」
返事はない。
ナルはしばらく黙り込むと、諦めたように両手を上げた。
「降参だ」
その一言に迷いはなかった。
戦えば死ぬ。
逃げても追い付かれる。
なら、無駄な抵抗をするだけ損だった。
レインも剣へ手を掛けない。
ただ静かにナルを見つめる。
その様子を見て、ナルは少しだけ肩の力を抜いた。
「カルドニア軍の人間か?」
レインが尋ねる。
「違う違う。元冒険者だ。今は雇われ傭兵。今回はカルドニアから仕事を請けただけさ」
ナルは肩をすくめる。
「忠誠心なんて立派なものは持ち合わせちゃいない。金を払われりゃ働く。それだけだ」
レインは静かに頷いた。
「今回の目的は」
「兵站破壊だ。街を落とす気は最初からない。工作員が混乱を起こして、その隙に補給拠点を焼く。それだけだった」
ナルは知っている限りの情報を素直に話した。
ノルガルト軍の役割。
カルドニアの支援。
今回の作戦の概要。
しかし、それ以上の軍上層部の情報は出てこない。
傭兵であるナル自身が知らなかった。
話を聞き終えたレインは少しだけ考え込む。
やがて顔を上げた。
「なら、一つ依頼があります」
「……依頼?」
「今後、俺の依頼を受けてもらえませんか」
ナルは目を瞬かせた。
「情報収集です。カルドニアにも自由に出入りできますよね」
数秒の沈黙。
やがてナルは腹を抱えて笑い出した。
「はははっ! 命を取るかと思えば、まさか仕事の勧誘とはな!」
笑いが収まると、ナルはレインを見つめる。
「面白い奴だ、お前」
「どうでしょうか」
「いいぜ」
即答だった。
「どうせ俺は国にも縛られちゃいない。面白そうな仕事なら嫌いじゃない」
そう言って右手を差し出す。
レインもその手を握った。
その瞬間だった。
「あ、依頼料は出世払いでお願いね」
ナルの動きが止まる。
「……は?」
「今は、あまりお金がないので」
「待て待て待て」
ナルは思わず両手を振った。
「超越者を出世払いで雇う奴なんて初めて見たぞ!」
「必ず払います」
「その"必ず"が何年後なんだ?」
「できるだけ早く」
真顔だった。
ナルはレインの顔を見つめる。
冗談ではない。
本気で言っている。
数秒後、大きなため息を吐いた。
「……まあいい。こんな面白い依頼人、そうそういないしな」
苦笑しながら握った手へ力を込める。
「よろしく頼むぜ、レイン」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
夕暮れの岩場。
誰にも知られることなく、一人の超越者と、一人の少年の間で新たな契約が結ばれた。
それは後に、レインを陰から支える大きな力となっていく。




