ミルデン7
レインが司令官室を後にした頃には、ミルデンの空気は静かに変わり始めていた。
もっとも、その変化に気付ける者はごくわずかだっただろう。
司令官ガレスは間を置かず動き出していた。伝令たちが夜の駐屯地を駆け回り、各部隊長へ密かに命令が伝えられていく。だが街の様子は何一つ変わらない。巡回兵の数も城門の警備も普段通り。倉庫街では荷馬車が行き交い、商人たちの声も絶えることはなかった。
敵に警戒を悟らせないためである。
兵士たちだけが知っていた。
戦いは、もう間近まで迫っていることを。
誰もがその予感を胸に抱いたまま、ミルデンは静かに夜を越えた。
翌朝。
一年Sクラスの生徒たちは会議室へ集められた。
教壇へ立ったアルドは、いつものような前置きを一切しない。
「予定を変更する。本日より物資防衛任務へ移行する」
その一言だけで室内の空気が引き締まる。
アルドは壁へ掛けられたミルデン周辺の地図を指した。
「昨夜、新たな情報が入った」
会議室が静まり返る。
「現在、ミルデンには避難民、商人、傭兵、労働者など、多くの人間が出入りしている。その中に間者が紛れ込んでいる可能性が高い」
騎士学校へ入学して一年近い。
学生とはいえ、その言葉が意味する危険性を理解できるだけの経験は積んでいた。
「敵が狙うのは兵站だ」
アルドは地図の各所を指し示す。
「食料庫、倉庫街、補給所、給水施設。前線を支える場所ほど価値がある」
説明はそれだけだった。
続いて各班の配置が告げられる。
ラグナたちは倉庫街。
シルヴィアたちは補給管理所。
アイリスたちは食料庫。
それぞれ兵士たちと共に重要拠点の警戒へ向かった。
そして一日が始まる。
朝は静かに過ぎた。
昼になっても異変はない。
午後を迎えても、街は普段通り動き続けていた。
荷馬車が行き交い、商人たちは値段交渉を続け、労働者たちは汗を流しながら木箱を運ぶ。
一部の生徒は、情報そのものが誤りだったのではないかと思い始めていた。
だが兵士たちは違う。
倉庫街の警備兵は普段通り立っているように見えて、その視線は絶えず周囲を警戒していた。
巡回兵も雑談を交わしながら歩いているようで、実際には人の流れや不審な動きを細かく観察している。
さすがは前線を守る兵士たちだった。
全員が、敵の動き出す瞬間を待っていた。
そして夕刻。
太陽が西へ傾き始めた、その時だった。
最初に響いたのは悲鳴。
続いて煙。
そして炎。
倉庫街と商業地区の数か所から、ほぼ同時に黒煙が立ち上る。
城門方面でも怒号が響き渡った。
「来たぞ!」
兵士の叫びが街中へ走る。
潜伏していた間者たちが、一斉に動き出したのである。
敵は二手に分かれていた。
一方は城門。
混乱を引き起こし、逃走経路を確保するための陽動部隊。
そしてもう一方は倉庫街。
補給物資へ火を放つ本命だった。
だが敵は知らない。
ミルデンは、すでに待ち構えていた。
炎が上がった瞬間、周囲の建物から武装した兵士たちが一斉に飛び出す。
巡回兵に見えていた者たちも、全員が戦闘部隊だった。
「確保しろ!」
怒号と共に包囲網が閉じる。
敵も即座に応戦した。
袖へ隠していた短剣。
火炎瓶。
小型のクロスボウ。
一般人へ紛れ込んでいたとは思えない手際で兵士たちへ襲い掛かる。
その戦いの最前線へSクラスが投入されることはなかった。
兵士との連携訓練を積んでいない以上、無理に前へ出す方が危険だからである。
彼らへ与えられた役目は後方支援だった。
負傷者の救助。
避難民の誘導。
火災の消火補助。
そして包囲網を突破した敵への対処。
ラグナは兵士と共に避難路を確保し、アイリスは水魔法で燃え広がる炎を抑える。シルヴィアは周囲の状況を素早く整理し、指揮官たちへ正確な情報を送り続けていた。
街は混乱していた。
それでも崩壊はしない。
事前に備えていた差が、そのまま戦況の差となって現れていた。
やがて戦いはミルデン側へ大きく傾き始める。
包囲された間者たちが次々と制圧され、生け捕りも増えていった。
「生きたまま確保しろ!」
兵士たちの怒声が飛ぶ。
情報を引き出すためだった。
しかし敵もまた訓練されていた。
拘束された男の一人が突然口から血を吐く。
続いて二人。
三人。
隠し持っていた毒だった。
兵士たちが慌てて制止するが間に合わない。
捕らえられた間者たちは次々と命を絶っていく。
「くそっ!」
誰かの悔しげな叫びが響く。
街の各所では今なお火災が続き、負傷者も運び込まれていた。
兵士たちは救助へ走り、Sクラスもそれに続く。
燃え上がる倉庫。
泣き叫ぶ住民。
慌ただしく駆け回る兵士たち。
夕暮れのミルデンは、一瞬にして戦場へ姿を変えていた。
その混乱の中で、ただ一人だけ違う方向を見つめる者がいた。
レインだった。
その視線は城壁の向こうへ向く。
街の外。
川の先。
そして、その向こうに広がる森。
答えは、そこにある。
次の瞬間、レインは踵を返した。
向かう先はミルデンの外。
本当の戦場が、始まろうとしていた。




