予定変更
その報告を聞いた瞬間、村の空気が変わった。
「村から一キロ以内か……」
レオニスが低く呟く。
グレンズは短く頷いた。
一キロという距離は、人間にとっても大したものではない。森を縄張りとする大型魔物にとっては、獲物を探して歩き回る範囲の内側だ。ましてDランクともなれば、人間より遥かに速く森を駆ける。いつ村へ現れても何ら不思議ではない。
「予定を変更する。」
アルドが村人達を見渡しながら告げた。
「調査より討伐を優先する。」
反対する者はいない。
村人達の表情にも、張り詰めていた緊張が僅かに緩む。
彼らが求めているのは原因究明ではない。
今この瞬間、自分達を脅かしている魔物を排除してくれる存在だった。
準備は驚くほど早かった。
シルヴィは地図を広げて進路を確認し、セドリックは水と保存食を手際よく分配し直す。
フィオナは治療道具を一つひとつ確かめ、ラグは背中の大剣を軽く握り直した。
その間も、グレンズだけは村の外れに立ち、森から一度も視線を逸らさない。
すでに意識は索敵へ完全に切り替わっていた。
レインは少し離れた場所から、その様子を静かに眺めていた。
優秀だ。
誰かが細かな指示を出しているわけではない。
それでも全員が、自分の役割を理解し、自然と動いている。
盗賊討伐演習で見た一年生達とはまるで違う。
やがて出発の合図が響き、一行は森へ足を踏み入れた。
先頭はグレンズ。
その後ろをアルド、ラグ、レオニスが続き、一定の間隔を保ちながら隊列は森の奥へ進んでいく。
レインは最後尾付近から全体を見渡していた。
今回の主役は一年Sクラスだ。
彼らが実際にどのような連携を見せるのか。
それを知ることも、この実地訓練の目的の一つだった。
能力も連携も把握していない自分が不用意に前へ出れば、かえって動きを乱しかねない。
だから今は観察に徹する。
それで十分だった。
森へ入って一時間ほどが過ぎた頃だった。
ふと、レインの足が止まる。
風が木々を揺らす。
葉擦れの音が森を満たす。
その奥に、ほんの一瞬だけ別の気配が混じった。
殺気。
鋭く、それでいて一瞬で消える。
レインは静かに後方へ視線を向けた。
ほぼ同じタイミングで、アルドも足を止めて振り返っている。
二人の目が合った。
どうやら気付いたのは自分達だけらしい。
前を進むSクラスの面々は、依然として索敵を続けながら前方へ意識を向けている。
「先生。」
「感じたか。」
レインは小さく頷いた。
「別方向です。」
アルドは数秒だけ考え込む。
やがて短く命じた。
「確認してこい。」
「分かりました。」
返事と同時に、レインは森の奥へ駆け出した。
気配は途切れ途切れだった。
だが見失うほど甘くはない。
枝をかわし、斜面を駆け上がり、小川を飛び越える。
数分ほど追ったところで、ようやくその正体が視界へ映った。
巨大な黒い影。
全長三メートルを超える熊型魔物。
森で見つかった痕跡と一致する。
Dランク魔物――アーマーベア。
だが、レインの意識は別の場所へ向いていた。
魔物の視線の先。
少し離れた場所で、中年の男と十歳ほどの少年が薪を束ねている。
どうやら森へ薪拾いに来ていたらしい。
二人はまだ気付いていない。
しかしアーマーベアは、すでに獲物として捉えていた。
低く喉を鳴らし、ゆっくりと距離を詰めている。
間に合わない。
今から声を張り上げても、振り返る頃には飛び掛かられる。
逃げても追い付かれるだけだ。
レインは静かに息を吐いた。
本来なら、一太刀で終わる。
だが、それでは意味がない。
今回の任務は魔物討伐。
そして一年Sクラスにとって初めての本格的な実戦でもある。
自分が全て終わらせれば、彼らは何も得られない。
ならばやるべきことは決まっていた。
討伐ではなく、時間を稼ぐ。
そう判断した瞬間、アーマーベアが地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で一直線に村人達へ襲い掛かる。
その進路へ、レインは一瞬で飛び込んだ。
轟音と共に振り下ろされた前脚を剣で受け止める。
衝撃で足元の土が大きく抉れた。
普通の一年生なら、その一撃だけで吹き飛ばされていただろう。
それでもレインは一歩も退かない。
「こっちだ。」
小さく呟く。
アーマーベアの赤い瞳が、ゆっくりと標的を変えた。
次の瞬間、森を震わせる咆哮が響き渡る。
それを確認すると、レインは後方へ跳んだ。
村人達から距離を取りながら、少しずつ森の奥へ誘導していく。
剣を合わせる。
攻撃を受け流す。
決して深追いはしない。
倒そうと思えば倒せる。
それでも、あえて決定打は放たなかった。
その間もレインの耳は周囲の音を拾い続けている。
遠くで揺れる木々。
複数の足音。
――来た。
レインはアーマーベアの突進を紙一重でかわしながら、小さく口元を緩めた。
ここから先は、自分の戦いではない。
一年Sクラスにとって、本当の実戦が始まろうとしていた。




