しばしの別れ
学校長室の扉が静かに閉まった。
レインとエドワードの足音が廊下の向こうへ消えていくのを確認すると、アレクシス・フォン・ヴァルハルトは椅子へ深く腰を下ろした。先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは消え、その表情には歴戦の将が戦場地図を睨む時と同じ鋭さが宿っている。
「どう思う」
誰へ向けた言葉でもない。
だが次の瞬間、部屋の奥にある扉が静かに開いた。
現れたのは一人の女性だった。
長い白銀の髪を後ろで束ね、黒を基調とした秘書官用の制服を纏っている。整った顔立ちは貴族令嬢にも引けを取らず、その立ち姿には騎士にも似た隙の無さがあった。
副学園長エレア・レインフォード。
学園の事務と情報管理を統括する人物であり、アレクシスが最も信頼する補佐官でもある。
「レイン・クロードのことでしょうか」
「ああ」
アレクシスは短く答えた。
「面白い子でしたね」
「面白い、で済めば良いがの」
老人は苦笑する。
そして机の上へ肘を置きながら静かに続けた。
「実力を隠しているのは間違いない。じゃが、それ以上に妙じゃ」
「師匠の件ですか」
エレアの言葉にアレクシスは頷いた。
王国の上層部に長くいた彼だからこそ分かる。
あの名は普通はではない。
知らないはずがない名だった。
だが同時に、レインの経歴には何も残されていない。
地方の平民。
村の自警団経験あり。
提出書類に書かれているのはそれだけだ。
あまりにも薄い。
あまりにも綺麗すぎる。
「調べてみるか?」
エレノアが尋ねる。
アレクシスはしばらく考えた後、小さく首を振った。
「学園の権限では限界があるじゃろうな」
「では騎士団へ?」
「うむ」
老人の視線が窓の外へ向く。
訓練場では生徒達が木剣を振っている。
「第三騎士団へ問い合わせを出せ。表向きは身辺調査ではなく確認だ。レイン・クロードという少年について何か記録が残っておらんかとな。あと十二、十三騎士団にも連絡を」
そう言うとしばらく考え込む
「念のため国王と宰相にも連絡」
「承知しました」
エレアは即座に頷いた。
だが次の言葉には僅かな苦笑が混じる。
「もっとも、何も出てこない気がしますが」
「わしもそう思う」
アレクシスは肩を竦めた。
もし本当にあの人物が関わっているなら、簡単に辿れるはずがない。
むしろ何も出てこない方が自然だった。
だからこそ気になる。
悪鬼と呼ばれた男が、なぜ一人の少年へ剣を教えたのか。
そして、その少年がなぜ今になって王立騎士学校へ現れたのか。
「しばらくは様子見じゃな」
老人はそう結論付ける。
エレアも異論はなかった。
どのみち今は確証がない。
だが二人とも理解していた。
レイン・クロードという少年は、王立騎士学校の一年生という枠には収まらない。
そんな予感だけは確かにあった。
◇◇◇
学園長室を出たレインは大きく息を吐いた。
思わず漏れた言葉は率直だった。
「面倒だな……」
学園長との会話を思い返すだけで頭が痛くなる。特例編入だけでも十分目立つのに、最後には意味深な話まで聞かされたのだ。静かに卒業するという当初の予定は、もはや見る影もない。
そんなことを考えながら校舎を歩き、教室の扉を開いた瞬間だった。
数十人分の視線が一斉に突き刺さる。
査定発表は既に終わっている。それでも教室の熱気は冷めていなかった。皆の関心は順位ではなく、突然Sクラスへ編入になったレインへ集中している。
「おい、本当なのか!?」
「学園長室で何言われたんだよ!」
「特例編入なんて聞いたことないぞ!」
矢継ぎ早に飛んでくる質問へ、レインは困ったように頭を掻いた。
「言えない」
「は?」
「守秘義務なんだ」
その一言で教室が静かになる。
納得したわけではない。ただ騎士学校では珍しい話でもなかった。貴族家の事情、騎士団の機密任務、王都の政治案件。生徒達であっても口外を禁じられる案件は存在する。
だからこそ、それ以上は踏み込めない。
「気になるんだけどなぁ……」
ロイが不満そうに呟く。
「俺も」
「同感だ」
ガレンとエリオットまで頷いたが、それ以上の追及はなかった。
やがてバルトによる説明も終わり、昼休み皆に簡単な別れをいい、レインは荷物をまとめるため寮へ戻った。
四〇七号室の扉を開くと、九ヶ月近く見慣れてきた光景が迎えてくれる。ロイの散らかった机、ガレンの整然とした棚、エリオットが積み上げた戦術書の山。そのどれもが見慣れた日常の一部だった。
「今日で終わりか」
ロイが珍しく静かな声で言う。
「別に学校辞めるわけじゃないだろ」
「それはそうなんだけどな」
苦笑しながら答えるロイに、ガレンとエリオットも小さく笑った。
荷物は多くない。
三人も当然のように手伝い始めたため、片付けはあっという間に終わった。
最後に部屋を見回す。
入学してからの日々が脳裏を過ぎった。
初日の自己紹介。
ランキング戦。
夜間奇襲訓練。
馬鹿騒ぎした夕食。
くだらない雑談。
思い返せば案外悪くない時間だった。
「じゃあな」
荷物を持ち上げながら言うと、
「おう」
「また会おう」
「食堂で会うだろうけどね」
いつも通りの返事が返ってくる。
だから湿っぽい空気にはならなかった。
レインは軽く手を振り、そのまま部屋を後にする。
一般寮を離れ、訓練場近くの区域へ向かうと、一棟の石造建築が見えてきた。装飾は少ないが造りは堅牢で、どこか騎士団の士官宿舎を思わせる雰囲気がある。
一年Sクラス寮。
今日から自分が暮らす場所だった。
同じ学校だ。
ロイ達とも顔を合わせるだろう。
それでも、この扉をくぐった瞬間から何かが変わる。
そんな予感だけは十分過ぎるほどあった。
「……本当に面倒なことになったな」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、レインはSクラス寮の入口へ足を踏み入れた。




