死なせぬため
それ以上、その話題に触れる者はいなかった。
学園長ですら軽々しく扱えない名である以上、深入りする理由はない。レイン自身も詳しい事情を知らないのだから、これ以上話が広がることもなかった。
しばらくの間、学園長室には静かな空気が流れた。
窓の外から聞こえてくるのは訓練場で木剣がぶつかり合う音だけである。規則正しく響くその音は、今この瞬間も大勢の生徒達が騎士になるため汗を流している証だった。
やがて学園長が小さく息を吐いた。
「さて、本題だ」
その一言を聞いた瞬間、レインの中で警鐘が鳴る。
嫌な予感しかしない。
これまでの流れを考えれば尚更だった。
生徒会へ呼ばれ、Sクラス編入を告げられ、学園長室へ呼び出された。その結果が平穏な話で終わるとは到底思えない。
そんなレインの表情を見たのか、向かいに座るエドワードの口元が僅かに緩んだ。
「レイン、お前はSクラスを少し誤解しているようじゃな」
学園長の言葉にレインは首を傾げる。
「誤解ですか?」
「ああ。お前はSクラスを成績優秀者の集まりだと思っているだろう」
「違うんですか?」
「半分正解じゃな」
即答だった。
学校長はゆっくりと立ち上がると、壁際に掛けられた大きな地図の前へ歩いていく。そこにはアルディア王国全土だけではなく、周辺諸国や主要街道、国境地帯、さらには魔獣の出現地帯まで細かく描き込まれていた。
レインも自然と視線を向ける。
単なる地図ではない。
軍が使う戦略地図に近いものだった。
「お前達一年生が今受けている教育は、騎士になるための基礎教育に過ぎん」
学校長は王都付近を指でなぞりながら続けた。
「学科、剣術、魔法、戦術、地理、歴史。AクラスだろうとDクラスだろうと、今はまだ騎士として最低限必要な知識と技術を学んでいる段階だ」
「ですが、Sクラスも授業はありますよね」
「最初はな」
学園長は振り返った。
「入学から九ヶ月までは、ほぼ同じじゃ」
その言葉にレインは少し安心しかける。
だが次の瞬間、その希望はあっさり砕かれた。
「九ヶ月後からは違う」
短い言葉だった。
だが重みがあった。
エドワードも静かに頷く。
「現在の一年Sクラスは、ちょうどその段階に入っている」
学園長は今度は地図の北方を指差した。
国境地帯。
魔獣の生息域。
幾つもの要塞都市。
軍事上重要な地点ばかりだった。
「Sクラスは優秀な生徒を集めた場所ではない」
学園長は静かに言う。
「王国の最高幹部候補を育成する機関じゃ」
その一言で部屋の空気が変わった。
レインも自然と表情を引き締める。
学園長は構わず続けた。
「卒業後、多くは騎士団へ進む。そして将来的には部隊長、将校、あるいは席持ちを目指すことになる。」
「ちなみに二年生からは教育内容が多少変わるぞ」
エドワードが補足する。
「実戦を意識した内容が増える」
「教育内容?」
「実地教育だ」
面倒な予感しかしなかった。
レインは内心で頭を抱える。
その様子を見てエドワードが少し笑ったが、学園長は気付かないふりをして話を続ける。
「もっとも、お前が想像しているような訓練だけではない。そして現在の一年Sクラスは、既にその一部を経験している」
レインは僅かに眉を上げた。
「経験している?」
「ああ」
学園長は頷く。
「騎士団新兵部隊との合同演習だ。魔獣討伐、治安維持補助、盗賊掃討。規模そのものは大きくないが、本物の任務へ同行している」
レインは思わず言葉を失った。
失敗すれば人が死ぬ。
「死体を見た者もいる」
エドワードが静かに言った。
「人を斬った者もいる。仲間が負傷する場面を見た者もいる。覚悟だけなら、既に現役兵士と大差ないだろう」
その言葉には不思議な重みがあった。
経験した者だけが語れる現実だった。
騎士学校の訓練と実戦は違う。
Aクラス以下は盗賊討伐演習を経験したとはいえ、常に二年Sクラスが安全を管理していた。
だが一年Sクラスは違う。
既にその境界線を越え始めている。
「一般兵はもっと厳しい」
学園長が言う。
「半年ほど訓練を受け、そのまま前線へ送られる者も珍しくない。平民出身者が大半だからな。騎士学校のような恵まれた教育環境など存在せん」
学園長の視線は地図の国境へ向いていた。
そこには幾つもの戦場があった。
王国の兵士達が命を懸けて守り続けている場所だ。
「多くの者は最初の戦場で死ぬ。生き残っても手足を失う者は珍しくない。だからこそ王国は騎士学校を作った」
学園長はゆっくり振り返る。
「王国が欲しいのは剣の強い兵士ではない」
エドワードが静かに言葉を継いだ。
「率いる者だ」
その言葉を聞いた瞬間、レインは自然と理解した。
強い兵士ならいくらでも育てられる。
だが軍を動かし、人を生かし、戦場を勝利へ導く者は簡単には育たない。
だから王国は時間と金を使う。
だから騎士学校が存在する。
だからSクラスがある。
「死ぬ者を減らすためですか」
レインの呟きに近い言葉だった。
部屋が静かになる。
学園長はしばらくレインを見つめ、それからゆっくり頷いた。
「そうじゃ」
短い言葉だった。
だがそこには王国が騎士学校へ莫大な資金を投入する理由が全て詰まっていた。
優秀な将校一人がいれば数百人が生き残る。
優秀な指揮官一人がいれば戦争そのものが変わる。
戦場を知る者ほど、その価値を理解している。
「現在の一年Sクラスは七名」
学園長が言う。
「そして今日から八名になる」
嫌な予感しかしなかった。
「お前だ」
案の定だった。
レインは静かに天井を見上げる。
現実逃避だった。
しかし現実は逃げてくれない。
「辞退は」
「できん」
学園長が即答する。
エドワードが吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。
レインは深々とため息を吐いた。
どうやら自分の平穏な学生生活は、本当に終わったらしい。




