阿鼻叫喚
翌朝、レインがBクラスの教室へ入ると、いつもの朝とは明らかに空気が違っていた。
今日は第三回査定の発表日である。本来なら誰が上がるのか、誰が落ちるのか、その話題で教室中が騒がしくなっているはずだった。実際、昨日までならロイが「今度こそ二十位台に入れるかもしれない」と騒ぎ、ガレンが呆れ、エリオットが過去の成績傾向をもとに真面目な予想を語っていたに違いない。
だが、今日のBクラスは違う。
皆が気にしているのは査定そのものではなく、昨日、二年Sクラスのレオンに連れて行かれたレインが、夜になっても寮へ戻らなかったことだった。
「おい、レイン」
自分の席へ向かおうとした瞬間、ロイが待ち構えていたように身を乗り出してきた。隣にはガレンとエリオットもいる。三人とも朝から妙に真剣な顔をしており、ただの好奇心だけでは済まない空気をまとっていた。
「昨日、何があった?」
「何が、とは?」
レインは鞄を机へ置きながら答えたが、ロイは当然のように顔をしかめる。
「とぼけるなよ。Sクラスの先輩に呼ばれて、そのまま生徒会室だろ? しかも昨日、寮に帰ってないじゃないか。普通に考えて、何もありませんでしたで通るわけないだろ」
ロイの声はそれほど大きくなかった。
しかし、教室の中は不自然なほど静かだった。周囲の生徒達はそれぞれ机へ向かっているふりをしながら、明らかにこちらへ耳を傾けている。女子生徒の何人かは教科書を開いたまま一ページもめくっておらず、ワルでさえ腕を組んで窓の外を見るふりをしながら、完全に聞く体勢に入っていた。
「少し話をしただけだよ」
「誰と?」
「生徒会の人達」
「何人?」
「それなりに」
「それなりって何だよ」
「色々」
「雑すぎるだろ!」
ロイが思わず声を上げると、教室のあちこちで小さな笑いが起きた。だが、笑っている者達も視線だけはレインから外さない。査定発表の日だというのに、Bクラスの関心は完全に昨日の出来事へ向いていた。
ガレンが腕を組み、低い声で続ける。
「問題を起こしたのか」
「起こしてない」
「本当か?」
「本当」
「なら、なぜ門限までに戻らなかった」
「話が長引いた」
「何の話だ」
「それは……まあ、学校のことかな」
曖昧な返答を聞き、今度はエリオットが眼鏡を押し上げた。
「学校のこと、という表現では範囲が広すぎるね。生徒会がBクラス一位の生徒を呼び出す理由として考えられるのは、査定、ランキング戦、盗賊討伐演習、あるいはレイン君自身に関する何かだと思うけど」
「エリオット、推理が鋭いね」
「つまり、その中に近いものがあるんだね」
「ないとは言ってない」
「あるとも言っていないよね」
レインは小さく息を吐いた。
三人は普段なら頼もしい同室者だが、こういう時は非常に面倒だった。しかも昨日の件については、生徒会から口外しないよう言われている。アレスとの非公式試合も、一年Sクラスへの編入も、発表前に教室で話せる内容ではなかった。
「本当に大したことじゃないよ」
「絶対に嘘だろ」
ロイが即答し、周囲の生徒達まで小さく頷く。
まるでBクラス全員で一つの尋問をしているような空気だった。
その時、教室の扉が開いた。
入ってきたのは、Bクラス担任のバルトだった。
元第四騎士団第十席である大柄な男が教壇へ立つだけで、教室のざわめきは自然と小さくなる。だが、完全には消えなかった。昨日のことを聞きたい者、今日の査定結果が気になる者、その両方が混ざり、教室全体が落ち着かない熱を帯びている。
バルトは出席簿を教卓へ置き、いつものように教室を見渡した。
数秒の沈黙。
それだけで、生徒達の背筋が伸びる。
「査定結果を発表する前に、一つ伝えることがある」
低い声が教室へ響いた。
その一言で、空気が変わる。
査定発表の前に担任がわざわざ告げる話など、軽い内容であるはずがない。ロイが隣で小さく息を呑み、ガレンも表情を引き締める。エリオットは手にしていた筆記具を止めた。
バルトの視線がレインへ向く。
「レイン・クロード」
「はい」
「本日付で、お前は一年Sクラスへ編入となる」
教室の時間が止まった。
本当に止まったように感じられた。
ロイは口を開けたまま固まり、ガレンは目を見開き、エリオットは手にしていた筆記具を机へ落とした。周囲の生徒達も同じだった。誰もすぐには言葉の意味を理解できない。
Aクラスへの昇格なら、驚きはしても納得はできたかもしれない。
だが、Sクラスである。
王立騎士学校最高峰の特別な席。通常なら一年最後の査定を経て、Aクラス上位者の中から選抜される場所へ、Bクラスから直接編入する。
そんな話を、すぐに飲み込める者などいなかった。
「……は?」
誰かが漏らした声を合図に、次の瞬間、教室が爆発した。
「Sクラス!?」
「一年Sって、あのSクラスか!?」
「嘘だろ、普通は一年最後の査定じゃないのかよ!」
「特例編入ってことか!?」
「いや、BからいきなりSなんて聞いたことないぞ!」
椅子が鳴り、机が揺れ、何人もの生徒が立ち上がる。女子生徒達も顔を見合わせ、信じられないという表情でレインを見つめていた。
ロイなどはレインの肩を掴みかけて、途中で手を止めている。何か言いたいのだろうが、あまりの出来事に言葉が出てこないらしい。
ワルも無言だった。
第二回査定で五位まで順位を上げた彼にとって、今日の査定発表は、自分が積み重ねてきた努力を示す日になるはずだった。
だが、その前に告げられたのはレインのSクラス編入だった。
悔しさはあった。
これまでレインと競い、追いつこうとしてきたからこそ、素直に受け入れられる話ではない。
それでも、以前のように不公平だと決めつけることはできなかった。
ランキング戦で敗れた時、ワルはレインの強さを直接味わっている。夜間奇襲訓練では、誰にも気付かれないように防衛線の穴を埋める姿も見た。盗賊討伐演習でも、レインは目立たないまま結果を残している。
レイン・クロードが普通ではないことを、ワル自身が誰より理解していた。
レイン本人はというと、静かに頭を抱えたい気分だった。
分かっていた。
昨日、エドワードから聞かされていた以上、こうなることは分かっていた。それでも実際に教室で発表されると、想像していた以上にきつい。
これではもう、目立ちたくないなどと言っていられる段階ではない。
「静かにしろ」
バルトの一声が響いた。
教室を満たしていた騒ぎが一瞬で収まる。完全に動揺が消えたわけではないが、それでも誰も大声を上げられなくなった。元第四騎士団第十席の声には、それだけの重みがあった。
「決定事項だ。詳しい査定順位については、この後で伝える」
バルトは教室を見渡し、言葉を続ける。
「レインの編入は、これまでの査定結果と教官会議の評価を踏まえ、学園長が認めた特例措置だ」
教室が再びざわつきかけた。
だが、バルトが視線を向けるだけで全員が口を閉じる。
「特別扱いではない。こいつがこれまで残した結果に対する、正当な評価だ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
レインがどれほどの力を隠しているかは知らない。
それでも、Bクラス一位という結果だけなら、全員が知っている。ランキング戦、夜間奇襲訓練、盗賊討伐演習。何をしたかまでは分からなくとも、教官達が何も見ずにこの決定を下したわけではないことだけは伝わった。
「レイン」
「はい」
「お前はこの後、学園長室へ行け。すぐにだ」
今度こそ、教室中が息を呑んだ。
Sクラスへの特例編入だけでも十分すぎるほどの大事である。そのうえ、学園長室への呼び出しまで続いた。
普通の生徒なら、二年間通っても一度も足を踏み入れない場所だ。
そこへ、昨日は生徒会に呼ばれ、今日はSクラス編入を告げられたレインが向かう。
Bクラスの生徒達が何を想像するかなど、考えるまでもなかった。
レインは諦めたように返事をする。
「……分かりました」
その声に元気はない。
隣でロイが呆然と呟いた。
「お前、本当に何者なんだよ……」
レインは答えなかった。
答えられることなど、何もなかったからだ。
学園長室は、王立騎士学校本館の最上階にあった。
厚い扉、磨き込まれた床、廊下の壁に並ぶ歴代学園長の肖像画。さらに奥には王国七騎士団の紋章旗が掲げられており、ここが学校であると同時に、王国軍を支える人材を育てる場所であることを物語っていた。
生徒が気軽に足を踏み入れる場所ではない。
その学園長室で、アレクシス・フォン・ヴァルハルトは机の上に並べられた資料へ目を落としていた。
白髪交じりの髪と深く刻まれた皺は、長い年月を生きてきたことを示している。だが、資料へ向ける眼差しに衰えはなく、背筋も真っ直ぐに伸びていた。
元第三騎士団総隊長。
かつて戦場で名を馳せ、今はアルディア王立騎士学校の学園長を務める人物である。
机の上には、レインに関するいくつもの資料が並べられていた。
ランキング戦の記録。
夜間奇襲訓練での教官評価。
盗賊討伐演習の報告書。
そして昨夜、生徒会室に隣接する訓練場で行われた、アレスとの非公式試合についての報告。
アレクシスの向かいに座っているのは、生徒会長エドワード・フォン・グランベルだった。
「レインをどう見た」
学園長の問いに、エドワードは一度だけ目を伏せて考え、それから答えた。
「間違いなく、実力を隠しています」
「どの程度だ」
「分かりません」
アレクシスの眉がわずかに動いた。
エドワードほどの生徒が、分からないと断言するのは珍しい。だが、その言葉に曖昧さはなかった。
何も見抜けなかったからではない。
見極めようとして、それでも底まで届かなかったのだ。
「リリアと比べてどうだ」
「そこまではないと思います。ただ、現時点では判断できません」
エドワードは慎重に言葉を選んだ。
リリアの強さは、学園内でも別格である。目の前で見れば、多くの者はその差を理解する。だがレインは、そもそも比較できるだけの力を見せていない。
「昨夜、レインはアレスが本気で放った最初の連撃を、すべて紙一重で避けました。偶然ではありません。反射だけで避けた動きでもない。剣筋を見切った上で、必要最低限の動きだけで外しています」
「余力は?」
「残していたと思います」
エドワードは迷わず答えた。
「少なくとも、追い詰められていたようには見えませんでした。アレスも同じ見解です」
アレクシスは報告書へ視線を戻す。
そこには、Bクラス担任であるバルトの評価も記されていた。
派手な活躍を求めず、崩れかけた場所へ入り、防衛線を維持する。周囲の生徒が混乱する中でも全体を見失わず、必要な動きを選ぶ。
敵を多く倒したわけではない。
自分の強さを誇示したわけでもない。
だが、実戦を知る者ほど、その判断の価値が分かる。
「バルトも似たことを書いている。敵を倒すだけの生徒ではない。崩れかけた場所へ入り、戦線を保たせる、と」
「はい」
「アルベルト・フォン・グランツも、夜間奇襲訓練で同じものを見たようだな」
「彼は人を見る目があります。レインを警戒するのではなく、戦力として評価していました」
アレクシスは椅子へ深く腰掛けた。
「平民。南部の村で育ち、近くの駐屯地にいた騎士から、剣と魔法を少し習った。提出された経歴はそうだったな」
「はい」
「信じているか」
「いいえ」
エドワードは即答する。
「本人が何者かまでは分かりません。ただ、少なくとも通常の教育を受けた生徒ではないでしょう。剣も魔法もそうですが、何より周囲の見方が違います。あれは訓練だけで身につくものではありません」
アレクシスは目を細めた。
その眼差しには、かつて数多くの兵士を見てきた者の鋭さがある。
「Sクラスへ上げることに問題はあると思うか」
「実力だけを見れば、ありません」
エドワードは少し考え、言葉を続ける。
「ただ、本人は目立つことを強く嫌っています。出世や名誉にも興味がないようでした。無理に実力を示させようとすれば、さらに隠そうとする可能性があります」
「問い詰めるべきではないと?」
「少なくとも、疑うことを前提に接するべきではないと思います」
エドワードは昨夜の会話を思い出していた。
レインには野心がない。
騎士団長を目指す意思もなく、貴族との関係を広げたいとも思っていない。ただ普通に卒業し、普通に騎士になって暮らしたいと、本気で考えている。
その普通が、周囲にとって普通ではないだけだった。
「本人から話す気がないのなら、今は実際の行動を見るべきかと」
「なるほど」
アレクシスは短く頷いた。
「ならば、まずは話してみるしかあるまい」
その時、扉の外で足音が止まった。
控えめなノックが室内へ響く。
「入りなさい」
アレクシスが告げると、厚い扉がゆっくりと開いた。
姿を見せたのは、レイン・クロードだった。
昨夜はアレスの部屋へ泊まり、今朝はそのままBクラスへ向かったため、十分に休めたとは言い難い。それでも服装に乱れはなく、室内にいる二人を確認すると、いつもどおり丁寧に頭を下げた。
「失礼します」
アレクシスは、入室してきた少年を静かに見つめた。
エドワードもまた、昨夜とは異なる空気の中でレインを見る。
昨日までBクラス一位だった生徒。
本日付で、一年Sクラスへ特例編入する少年。
だが、それ以上に。
まだ誰も、その底を見極められていない存在。
「レイン・クロード」
学園長の声が室内へ響く。
「君と少し話がしたい」
レインは一瞬だけ、嫌な予感を覚えたように目を細めた。
だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「はい」
その返事を聞きながら、エドワードは改めて思った。
昨日の時点で、この少年はすでに普通の生徒ではなくなっていた。
そして今日からは、それを学校全体が知ることになる。
レイン・クロード本人がどれほど望まなくとも、彼の存在はもう、Bクラスの中だけには収まらない。
恐らく、この先に待っている騒ぎは、今朝の教室の比ではないのだろう。




