女神
「……まずいですね」
一年Sクラスへの特例昇格が決まり、生徒会室の空気がようやく落ち着き始めた頃だった。
ぽつりと漏れたレインの呟きに、レオンが不思議そうな顔を向ける。
さ
「何がだ?」
「寮の門限です」
一瞬、誰も意味が分からなかった。
だが数秒後、その意味を理解したレオンが腹を抱えて笑い始める。
「あっはははは! そこかよ!」
ヴィクトルも思わず吹き出し、クリスティーナは額へ手を当てて苦笑する。
ノアでさえ小さく肩を震わせていた。
一年Sクラスへの昇格という一大事を前にして、本人が気にしているのは寮の門限。
どこまでもレインらしい発想だった。
「一年寮はもう閉まってますよね」
「……閉まっているな」
エドワードも苦笑交じりに頷く。
「今日はどうするんですか?」
真剣に尋ねるレインを見て、再び笑いが広がった。
すると勢いよく手を挙げた人物がいる。
「じゃあ私の部屋!」
リリアだった。
「レイン、私の部屋に泊まればいいじゃん!」
「却下です」
クリスティーナが即答する。
「却下だ」
アレスもほぼ同時だった。
「えー!」
「『えー!』ではありません」
クリスティーナが呆れたように言う。
「男女ですよ?」
「大丈夫だよ?」
「何が大丈夫なんですか」
「広いし!」
「そういう問題ではありません」
リリアは納得していない様子だったが、さすがに周囲全員が反対した。
結局、夜も遅く新しい部屋を用意する時間もないため、正式な部屋替えは翌日の査定発表後に行うこととなった。
それまでの一泊だけ。
「私が預かる」
そう申し出たのはアレスだった。
「監視も兼ねる」
その一言で全員が納得する。
レインだけが少しだけ嫌そうな顔をしていた。
「勘違いするな」
生徒会室を出た直後、アレスは歩きながら口を開いた。
「君を信用したわけではない」
「知っています」
「リリア様へ近付けないためだ」
「それも知っています」
「ならいい」
会話はそこで終わる。
夜の校舎は静まり返っていた。
昼間なら生徒達の声が響く石造りの廊下も、今は窓から差し込む月明かりと魔導灯の柔らかな光だけが照らしている。
二人の足音だけが規則正しく響き、そのままSクラス寮へと辿り着いた。
三階建ての石造建築は、一年寮とは明らかに造りが違う。
豪華な装飾こそないが、堅牢で無駄がなく、王国騎士団の士官宿舎を思わせる落ち着いた雰囲気があった。
「立派ですね」
レインが素直に感想を漏らす。
アレスは前を向いたまま短く答えた。
「普通だ」
その返答にレインは苦笑する。
やはり、そう返ってくると思っていた。
部屋へ案内されると、その印象はさらに強くなった。
広い。
一年寮の四人部屋ほどの広さを一人で使っている。
壁際には手入れの行き届いた武具が整然と並び、本棚には剣術書、戦術書、魔法理論書が隙間なく収められていた。
飾り気はほとんどない。
それでも、この部屋だけで持ち主の性格がよく分かる。
真面目で几帳面。
努力を怠らない男。
そんな印象だった。
「綺麗ですね」
「当然だ」
アレスは剣を机へ置く。
「騎士は武具も部屋も整える。乱れた環境は、乱れた判断を生む」
短い言葉だった。
だが、その一言だけで十分な説得力がある。
この部屋そのものが、アレスの生き方を物語っていた。
その後しばらく、二人の間に会話はなかった。
アレスは慣れた手付きで剣の手入れを始める。
レインは借りた椅子へ腰を下ろし、その様子を静かに眺めていた。
部屋へ響くのは、砥石が刃を擦る音だけ。
不思議と気まずさはない。
むしろ静かで落ち着く空間だった。
やがてレインが何気なく口を開く。
「リリア先輩のこと、本当に大事なんですね」
砥石の音が止まる。
アレスはしばらく黙ったまま剣身を見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「当然だ」
短い返答。
しかし、その言葉には揺るぎない確信があった。
アレスは自分から続きを話し始める。
「私は十歳まで、自分が最強だと思っていた」
レインは口を挟まない。
静かに耳を傾ける。
アレスが自分の過去を語る。
それがどれほど珍しいことかは、一日過ごしただけでも十分伝わっていた。
「同年代に負けたことはなかった。年上にも勝った。剣も魔法も、誰より優れていると思っていた」
淡々とした口調。
自慢話ではない。
ただ、過去の事実を並べているだけだった。
「周囲の大人達も同じことを言った。天才だと。将来は騎士団を背負う人材だと」
そこでアレスは自嘲するように笑う。
「だから信じていた。自分が一番強いと」
少年だったアレスにとって、世界はまだ狭かった。
見えている範囲だけが世界の全てだった。
だから疑わなかった。
剣でも魔法でも、自分より強い者など存在しないと。
「そんな時に聞いた」
アレスの声色が少し変わる。
「リリア様の噂を」
同年代最強。
神童。
怪物。
王国の未来。
どこへ行っても耳に入るのは、同じ少女の話ばかりだった。
訓練場でも。
貴族達の集まりでも。
騎士達の酒席でも。
皆が口を揃えて、一人の少女を称賛していた。
「気に入らなかった」
アレスは即答する。
「私は最強だと思っていたからな。だから決闘を申し込んだ」
当然のように言う。
今思えば無謀だった。
勝つつもりだった。
自分こそが最強だと証明するつもりだった。
だが――。
「結果は惨敗だった」
その声には、今でも忘れられない敗北の重さが滲んでいた。
「戦いにすらならなかった」
アレスの視線が遠くなる。
剣を構えた。
全力で踏み込んだ。
次の瞬間、視界が反転した。
気付けば背中が地面へ叩き付けられ、木剣は手から離れていた。
何をされたのか分からない。
魔法を使う暇もなかった。
剣技も届かなかった。
ただ、一瞬で終わった。
「初めてだった」
アレスは静かに呟く。
「自分より強い人間を見たのは」
悔しかった。
情けなかった。
積み上げてきた自信も誇りも、その一瞬で打ち砕かれた。
だが、本当にアレスを変えたのは敗北ではない。
「リリア様は、私へ手を差し伸べた」
その時だけ、アレスの表情が柔らかくなる。
「『大丈夫?』と、一言だけ言われた」
勝者が敗者へ向けた、ごく自然な言葉。
見下されなかった。
笑われなかった。
本気で心配された。
「……女神だった」
断言だった。
レインは口元を少し引きつらせる。
(なるほど……そこが始まりか)
もちろん、口には出さない。
今ここで言えば、寝る前に決闘が始まりそうだった。
「それ以来だ」
アレスは剣を鞘へ納める。
「私はリリア様へ忠誠を誓った」
「尊敬ではなく、忠誠なんですね」
「忠誠だ」
迷いなく言い切る。
「強く、美しく、優しく、可愛い」
レインは黙る。
「守らなければならない」
「いや、リリア先輩は十分強いですよね」
「当然だ。女神だからな」
「なら守る必要は――」
「強いことと可愛いことは別問題だ」
真顔だった。
レインは考えることをやめた。
理屈では勝てない相手だと理解したからだ。
その時、不意にアレスがレインを見る。
「君は……少しだけ似ている」
「誰にですか?」
「リリア様だ」
レインは露骨に嫌そうな顔をした。
アレスは構わず続ける。
「底が見えない」
それはアレスなりの最大級の評価だった。
「気に入らない。だが、実力は認める」
少なくとも今日の昼までなら、決して口にしなかった言葉だった。
「だから明日からは遠慮なく見張らせてもらう」
「結局そこなんですね」
「当然だ」
窓の外では夜が更けていた。
明日は査定発表。
そして一年Sクラスへの特例昇格。
学校中が騒ぎになることは間違いない。
レインは深くため息を吐く。
「本当に面倒ですね」
するとアレスは小さく笑った。
今日初めて見る、自然な笑みだった。
「諦めろ」
静かな声が続く。
「明日は、もっと騒がしくなる」
その言葉だけは、レインも否定できなかった。




