女神
「……まずいですね」
一年Sクラスへの特例昇格が決まり、生徒会室の空気が一段落した頃だった。
レインの呟きにレオンが首を傾げる。
「何がだ?」
「寮の門限です」
数秒後、生徒会室は笑いに包まれた。
その後の流れは早かった。
リリアが「私の部屋に泊まればいいじゃん!」と言い出し、クリスティーナとアレスが全力で反対。最終的に空き部屋の問題もあり、レインはアレスの部屋へ泊まることになった。
「勘違いするな」
生徒会室を出た直後、アレスは早速そう言った。
「君を信用したわけではない」
「知ってます」
「姫へ近付けないためだ」
「それも知ってます」
「ならいい」
会話はそこで終わった。
夜の校舎は静かだった。
昼間なら生徒達の声が響く廊下も、今は窓から差し込む月明かりと魔導灯の明かりだけが石畳を照らしている。二人の足音だけが規則正しく響き、そのままSクラス寮へ辿り着いた。
三階建ての石造建築は、一年寮とは明らかに格が違った。豪華な装飾はないが、堅牢で無駄がなく、どこか王国騎士団の士官宿舎を思わせる造りになっている。
「立派ですね」
レインが素直に感想を漏らすと、アレスは前を向いたまま答えた。
「普通だ」
その返答に苦笑しながらも、レインは内心で納得していた。
アレスならそう言うだろう。
部屋へ案内されると、その印象はさらに強くなる。
広い。
一年寮の四人部屋に近い広さを一人で使っているだけでなく、壁際には手入れの行き届いた武具が整然と並び、本棚には剣術書や戦術書、魔法理論書が隙間なく収められていた。飾り気はほとんどない。それでも部屋全体から持ち主の性格が伝わってくる。
真面目で几帳面。
そして努力を怠らない。
そんな印象だった。
「綺麗ですね」
「当然だ」
アレスは剣を机へ置く。
「騎士は武具も部屋も整える。乱れた環境は乱れた判断を生む」
短い言葉だったが説得力はあった。
実際、この部屋を見る限り有言実行なのだろう。
その後しばらく二人の間に会話はなかった。
アレスは机へ向かい、慣れた手付きで剣の手入れを始める。レインは借りた椅子へ腰を下ろし、その様子を眺めていた。
部屋へ響くのは砥石が刃を擦る音だけだった。
不思議と気まずさはない。
むしろ静かで落ち着く空間だった。
やがてレインが何気なく口を開く。
「リリア先輩のこと、本当に大事なんですね」
砥石の音が止まった。
アレスはしばらく黙ったまま剣を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。
「当然だ」
短い返答だった。
だがその言葉には揺るぎない確信があった。
そして珍しく、自分から話を続ける。
「私は十歳まで、自分が最強だと思っていた」
レインは何も言わない。
ただ静かに耳を傾ける。
アレスという男が自分から過去を語る。それがどれだけ珍しいことなのかは、今日一日で十分理解していた。
「同年代に負けたことはなかった。年上にも勝った。剣も魔法も周囲より優れていた」
自慢話ではない。
ただ事実を並べているだけだった。
「周囲の大人達も同じことを言っていた。天才だと。将来は騎士団を背負う人材だと」
そこでアレスは小さく笑う。
それは誇らしげな笑みではない。
過去の自分を振り返るような苦笑だった。
「だから信じていた。自分が一番強いと」
少年だったアレスにとって世界は狭かった。
見える範囲だけが全てだった。
だから疑わなかった。
剣で負けない。魔法でも負けない。同世代に敵はいない。
その事実が、いつの間にか絶対の自信へ変わっていた。
だが、その自信はある日突然崩される。
「そんな時に聞いた」
アレスの声色が少し変わる。
「リリア様の噂を」
同世代最強。
神童。
怪物。
王国の未来。
どこへ行っても同じ名前を聞いた。
訓練場でも。
貴族達の集まりでも。
騎士達の会話でも。
皆が同じ少女の話をしていた。
「気に入らなかった」
アレスは即答した。
レインは少しだけ納得する。
実にアレスらしい。
「私は最強だと思っていたからな。だから決闘を申し込んだ」
当然のように言う。
だが今思えば無茶苦茶だった。
勝つつもりだった。
叩き潰し、自分の方が上だと証明するつもりだった。
だが現実は違った。
「結果は惨敗だった」
アレスは静かに言う。
「戦いにすらならなかった」
その時の光景を思い出しているのか、視線が遠くなる。
剣を構えた。
踏み込んだ。
そして気付けば地面へ転がっていた。
何をされたのか理解できなかった。
魔法を使う暇もなかった。
剣技も通じなかった。
ただ圧倒された。
それまで積み上げてきた自信も誇りも、その一瞬で粉々に砕かれた。
「初めてだった」
アレスは呟く。
「自分より強い人間を見たのは」
悔しかった。
情けなかった。
世界がひっくり返った気がした。
だが本当にアレスを変えたのは敗北ではない。
「リリア様は私へ手を差し伸べた」
その時だけ、表情が柔らかくなる。
「大丈夫?」
たった一言だった。
勝者が敗者へ掛けた何気ない言葉。
だがアレスにとっては衝撃だった。
見下されなかった。
笑われなかった。
むしろ本気で心配された。
「女神だった」
断言だった。
レインは黙る。
そして思う。
そこからおかしくなったんだな、と。
もちろん口には出さない。
出した瞬間に決闘が始まりそうだからだ。
「それ以来だ」
アレスは剣を鞘へ収める。
「私はリリア様へ忠誠を誓った」
「忠誠なんですね」
「当然だ」
即答だった。
迷いも照れもない。
「強く、美しく、優しく、可愛い」
レインは黙る。
「守らなければならない」
「いや、リリア先輩強いですよね」
「当然だ」「女神だ」
「なら守る必要なくないですか?」
アレスは真顔だった。
「強いことと可愛いことは別問題だ」
意味が分からなかった。
だが本人が本気なので、レインは考えることをやめた。
その時だった。
アレスが不意にレインを見る。
「君は少し似ている」
「誰にですか?」
「リリア様だ」
レインは露骨に嫌そうな顔をした。
アレスは構わず続ける。
「底が見えない」
それはアレスなりの評価だった。
少なくとも今日の昼までなら絶対に言わなかった言葉だろう。
「気に入らないが、実力は認める」
初めて聞く本音だった。
窓の外では夜が更けている。
明日は査定発表。
そして一年Sクラスへの特例昇格。
確実に騒ぎになるだろう。
レインは深いため息を吐いた。
「本当に面倒ですね」
するとアレスは小さく笑う。
今日初めて見る自然な笑みだった。
「諦めろ」
そして静かに続ける。
「明日はもっと騒がしくなる」
その言葉だけは、レインも否定できなかった。




