驚愕
「レイン・クロード君。君に決闘を申し込む」
アレスの宣言が訓練場へ響く。
一瞬、空気が止まった。
だが、その沈黙を最初に破ったのは当のレインではない。
「いいね!」
勢いよく立ち上がったリリアが、目を輝かせながら笑う。
「面白そう!」
その無邪気な反応にレオンが思わず吹き出し、ヴィクトルも苦笑を浮かべた。クリスティーナは額へ手を当ててため息をつく。
もっとも、本気で止めようとしている者はいない。
資料や報告書だけでは分からないものがある。
実際に剣を交えれば、それが一番早い。
程度の差こそあれ、その考えはこの場にいる誰もが抱いていた。
そして空気をさらに変えたのは、続くリリアの一言だった。
「レインが勝つと思う」
あまりにも自然な口調だった。
だからこそ、一瞬誰も反応できなかった。
「……は?」
最初に声を漏らしたのはレオンだった。
ヴィクトルも眉をひそめる。
「相手はアレスだぞ」
「うん」
リリアは当然のように頷く。
「でも、レインが勝つと思う」
今度こそ室内が静まり返った。
アレスは何も言わない。
だが、その瞳だけが静かに鋭さを増していく。
クリスティーナは驚いたようにリリアを見つめ、エドワードも腕を組んだまま興味深そうに視線を向けた。
「根拠は?」
ノアが静かに尋ねる。
「ないよ」
リリアは即答した。
「ただ、そう思うだけ」
誰も理解できなかった。
本人ですら説明できていないのだから当然である。
それでもリリアだけは終始楽しそうだった。
まるで、これから起きることを知っているかのように。
一方のレインはというと、完全に巻き込まれた側だった。
「……拒否権はありますか」
一応確認してみる。
しかし返ってきたのは、綺麗に揃った首振りだった。
レインは小さく肩を落とす。
「ですよね」
その反応にレオンが苦笑する。
「諦めろ」
結局、一同は生徒会室に隣接する室内訓練場へ移動することになった。
夜の訓練場は静まり返っている。
広い石造りの空間には二年Sクラス十三人とレインしかいない。
外からこの様子を知る者はいなかった。
非公式の模擬戦。
本来なら、少し腕を合わせて終わる程度の余興である。
だが今は違う。
リリアの一言によって、この場にいる全員が無意識のうちにレインを観察し始めていた。
中央へ進み出たクリスティーナが審判を務める。
向かい合うアレスとレインの距離は五歩ほど。
アレスは木剣を握り、レインも用意された木剣を静かに受け取った。
「条件は?」
クリスティーナが確認する。
アレスはレインから視線を逸らさないまま答えた。
「私が仕掛ける最初の連撃を凌げば、レイン君の勝ちです」
周囲に異論はなかった。
実力差を考えれば、それでも十分すぎる条件だったからだ。
クリスティーナが右手を上げる。
「始め!」
その瞬間だった。
訓練場の空気が一変する。
レオンから笑みが消えた。
ヴィクトルが目を見開く。
ノアの表情が初めて動く。
圧倒的な剣気が訓練場を満たした。
アレスは一切躊躇なく床を蹴る。
その踏み込みは、一年生へ向けるものではない。
木剣を使っているだけで、中身は完全に実戦だった。
石床を踏み砕くような音が響いた時には、すでにレインの目前まで迫っている。
「アレス!」
クリスティーナが思わず声を上げた。
本気だった。
手加減など存在しない。
その場にいた全員がそう理解した。
鋭い一撃が振り下ろされる。
続けざまに二撃目。
さらに間髪入れず三撃目。
二年Sクラス第二位が放つ怒涛の連撃。
本来なら一年生が反応できる速度ではない。
それでも――当たらない。
レインは後ろへ飛ばなかった。
木剣で受け止めもしない。
ただ最小限だけ身体を動かし、斬撃の軌道から静かに外れていく。
紙一重。
本当に指一本分ほどしか動いていない。
それなのに木剣は何度振るわれても空を切る。
まるで最初から攻撃の軌道が見えているかのようだった。
三撃目が空を裂く。
アレスは四撃目へ移ろうとして――止まった。
届かない。
その確信があった。
レインもまた静かに動きを止める。
訓練場へ静寂が落ちた。
勝負は終わっていた。
アレスはゆっくり木剣を下ろす。
「……レイン君の勝ちだ」
クリスティーナも静かに息を吐く。
「勝負あり。レイン・クロードの勝ちです」
宣言が響いても、誰もすぐには反応できなかった。
条件通りならレインの勝利。
それは全員が理解している。
理解しているにもかかわらず、言葉が出てこない。
訓練場を支配していたのは勝敗ではなかった。
困惑だった。
今、何が起きたのか。
誰もがそれだけを考えている。
アレスの踏み込みは見えていた。
剣筋も見えていた。
だからこそ異常だった。
見えることと、避けられることはまったく別だからである。
二年Sクラスの面々は、アレスの実力を知り尽くしている。
普段から剣を交え、何度もその速度を体感してきた。
だから分かる。
あの連撃を真正面から受け流すのでも、防ぐのでもなく、最小限の動きだけで躱し切ることがどれほど困難なのか。
いや。
困難という言葉では足りない。
普通の学生には不可能。
それが全員の共通認識だった。
最初に沈黙を破ったのはクリスティーナだった。
「……無理ね」
小さな声だった。
だが静まり返った訓練場では、誰の耳にも届く。
「受けることはできる。でも、あの避け方は私にはできない」
レオンも苦笑しながら頭を掻く。
「俺も同じだ」
「受けるか、力で押し返すことは考える。でも、あれは思いついても体がついていかない」
ヴィクトルは何も言わない。
脳内で何度も先ほどの光景を繰り返している。
踏み込み。
斬撃。
回避。
たったそれだけのはずなのに、どうしても辻褄が合わなかった。
ノアもまた、初めて分析の手が止まっていた。
エドワードは静かにレインを見つめる。
先ほどまで優秀な一年生だと思っていた。
だが今の一瞬だけで、その評価は揺らいでいた。
優秀な一年生。
それだけでは説明がつかない。
そして、その沈黙を破ったのは、やはりリリアだった。
「だから言ったでしょ?」
満面の笑みだった。
「レインが勝つって」
今度は誰も反論しなかった。
反論できない。
彼ら自身が、目の前で起きたことをまだ整理できていないのだから。
訓練場の中央では、アレスも木剣を握ったまま静かにレインを見つめていた。
悔しさではない。
怒りでもない。
自分は本気だった。
手加減など一切していない。
それでも――当たらなかった。
その事実だけが、何より雄弁に、レイン・クロードという存在の異常さを物語っていた。




