実習授業4
誰も、何が起きたのか分からなかった。
ほんの一瞬前まで、三つの頭を持つ巨大な魔獣が目の前にいた。イシリアとロロは魔法を放つ寸前まで魔力を練り上げ、ナヤミたち三人は圧倒的な威圧感に呑まれながらも、どうにか身体を動かそうとしていた。
それが今では、三つの頭を失ったケルベロスが石床へ横たわっている。
何かが通り過ぎたことだけは分かった。だが、それが何だったのか。いつ剣が抜かれ、いつ三つの首が斬られたのか。
誰一人として見えていなかった。
最初に我へ返ったのはイシリアだった。
「レインさん」
その声に、全員の視線が一斉に動く。
先ほどまで最後尾にいたはずのレインが、いつの間にかケルベロスの前に立っている。その手に握られた剣を見て、イシリアもようやく何が起きたのかを理解したらしい。
倒れた巨体を避けながら、レインの側まで歩いていく。
「ありがとうございました。助かりました」
「いえ。護衛として仕事をしただけですので、気にしないでください」
レインは剣についた血を払い、そのまま鞘へ収めた。
次に動いたのはロロだった。
まだ信じられないものを見るように、倒れたケルベロスとレインを交互に見ながらイシリアの隣へ並ぶ。
「……あなたが倒したのよね?」
「はい」
「三つとも?」
「はい」
あまりにも普通に答えられ、ロロは一瞬言葉を失った。
ケルベロスを倒したこともそうだが、それ以上に理解できないのは、自分にまったく見えなかったことだった。
帝国に居る頃、ハーマ侯爵家の令嬢として相応の教育を受けてきた。魔術だけではなく実戦訓練も幼い頃から積み、学園でも優秀な成績を収めている。
そんな自分が、レインの動きを何一つ捉えられなかった。
剣を抜いた瞬間さえ分からない。
「……とにかく、ありがとう。あなたがいなかったら、誰かが大怪我をしていたと思うわ」
「皆さんが無事なら何よりです」
レインはそれ以上、この話を続けるつもりはないらしい。
倒れたケルベロスへ目を向けると、何事もなかったように話題を変えた。
「せっかくですから、魔石と使える素材を剥ぎ取りましょう。ダンジョンウォーカーの素材なら、それなりの価値があると思います」
その言葉に、イシリアの目がすぐにケルベロスへ向いた。
「三つの頭がありますけど、魔石も三つあるのでしょうか?」
「どうでしょう。解体してみないと分かりませんね」
「見てみたいです」
先ほどまで命の危険があったというのに、興味を持った途端にいつもの調子へ戻っている。
ロロが呆れたようにイシリアを見る。
「あなた、本当に昔から変わらないわね」
「気になりませんか?」
「気にはなるけど……」
そんな二人の会話を、少し離れた場所からナヤミたち三人は黙って聞いていた。
ナヤミは足元へ転がるケルベロスの頭を見る。
あれほど巨大だった魔物が、何もできないまま死んでいる。
自分たちは――何をしていた。
杖を構えることすらできなかった。
もちろん、何も考えていなかったわけではない。逃げるべきか、戦うべきか。頭の中では必死に考えていた。
だが、身体が動かなかった。
イシリアとロロは違った。
二人は突然現れたダンジョンウォーカーを前にしても、即座に戦闘態勢へ入った。五人で戦えば勝てる。ただし重傷者が出る可能性はある。
そこまで判断していた。
自分たちは、ただ立ち尽くしていただけだ。
しかも最後には、年下の少年に助けられた。
レインがイシリアの護衛として同行している以上、相応の実力を持っていることくらいナヤミも理解している。
公爵令嬢の護衛なのだ。
弱いはずがない。
それでも、頭で理解できることと感情が納得することは別だった。
イシリアとロロの前で、自分たちは何一つできなかった。その直後に、年下の護衛が圧倒的な力でケルベロスを倒した。
しかも本人は誇ることすらしない。
――護衛として仕事をしただけです。
先ほどの言葉が、妙に耳へ残っていた。
まるで、あの程度は大したことではないとでも言われているように聞こえてしまう。
もちろん、レインはそんなことを一言も言っていない。
それでも一度生まれた苛立ちは、簡単には消えなかった。
ナヤミの足が自然と前へ出た。
「待て」
レインが振り返る。
「はい?」
「なぜ勝手に手を出した」
その場の空気が変わった。
イシリアが不思議そうにナヤミを見る。
「ナヤミさん?」
「あれは俺たちが遭遇した魔物だ。俺たちは戦おうとしていた。それを横から勝手に奪っただろう」
ロロの表情から笑みが消える。
男子学生二人もナヤミの側へ歩み寄った。
「そうだ。俺たちだけでも戦えた」
「護衛なら護衛らしく、後ろにいればいいだろう。少し腕が立つからといって粋がるなよ」
レインは三人を見た。
反論することもなければ、怒る様子もない。
少し間を置いてから、静かに頭を下げた。
「申し訳ありません」
その態度が、かえって三人の神経を逆撫でした。
「……なんだ、その態度は」
「馬鹿にしているのか?」
「俺たちは――」
パンッ。
乾いた音が遺跡に響いた。
ロロが両手を合わせたまま、ナヤミたちを見る。
「そこまで」
声を荒らげたわけではない。
それでも三人の言葉は止まった。
「言いたいことがあるなら、地上へ戻ってからにしましょう。ここがどこなのか忘れていない?」
ロロは倒れたケルベロスへ視線を向け、それから周囲の暗い通路を見渡した。
「ダンジョンウォーカーが一体だけとは限らないわ。血の臭いで別の魔物が寄ってくるかもしれない。今ここで言い争っている場合じゃないでしょう」
ナヤミも周囲を見る。
先ほどまでケルベロスの存在に意識を奪われていたが、ここは最初に探索していた区域より明らかに深い。
いつ別の魔物が現れてもおかしくない。
「必要な素材だけ剥ぎ取って、すぐに戻る。それでいいわね?」
「……分かりました」
ナヤミが渋々引き下がる。
男子学生二人も、それ以上は何も言わなかった。
レインも先ほどのやり取りなどなかったかのようにケルベロスの側へしゃがみ込み、素材の確認を始める。
魔石を取り出し、牙や爪など価値のある部位だけを手早く剥ぎ取っていく。
その作業を横から眺めていたイシリアが、感心したように口を開いた。
「レインさん、解体もできるんですね」
「冒険者なら、この程度は覚えておいた方が便利ですから」
「今度教えてください」
「イシリアさんがですか?」
「はい」
「必要ないと思いますけど……」
「あります」
即答だった。
ロロが思わず吹き出す。
「その顔、昔から変わらないわね。興味を持ったら絶対に諦めないもの」
「そうでしょうか?」
「そうよ」
素材の回収を終えると、一行は来た道を引き返した。
帰路でも先頭を歩くのはナヤミたち三人だった。
ただし、行きとは空気がまるで違う。
三人ともほとんど話さない。
その少し後ろでは、イシリアとロロ、レインが並んで歩いていた。
「それにしても、本当に驚いたわ」
ロロは何度目か分からないほどレインを見る。
「私、全然見えなかったのよ。剣を抜いたところも、動いたところも」
「そうですか?」
「そうですか、じゃないわよ」
ロロが呆れたように笑った。
「イシリア。あなたは知っていたの?」
「レインさんが強いことですか?」
「そう」
イシリアは少し考える。
「強いとは思っていました」
「どれくらい?」
「そこまでは知りません」
二人の会話を聞きながら、レインは少し困ったような表情を浮かべる。
「あまり大げさにしないでください」
「無理でしょう。ケルベロスの首を三つまとめて落としておいて」
「まとめてではありません」
ロロが目を瞬いた。
「違うの?」
「三回斬りました」
数秒、沈黙が落ちた。
ロロがゆっくりとレインを見る。
「……余計に意味が分からないわ」
イシリアも隣で何度も頷いている。
「私も全然見えませんでした」
「そうですか……」
「だから、そうですかじゃないのよ」
今度はイシリアまで笑い出した。
三人の会話は、その後もしばらく続いた。
当然、その声は少し前を歩くナヤミたちにも聞こえている。
だが三人は一度も振り返らなかった。
行きにはあれほどイシリアとロロを意識していたというのに、今は後ろから聞こえてくる笑い声が妙に遠く感じられる。
やがて階段を上り切り、六人は遺跡の入口から地上へ出た。
薄暗い地下に長くいたせいか、降り注ぐ陽光がやけに眩しい。
すでに探索を終えた班がいくつか戻っており、教授や補助教員たちが入口付近で学生たちの帰還を確認している。地面へ座り込んで休む者もいれば、採取した素材を見せ合っている者もいた。
イシリアも何気なく周囲を見渡す。
そこで、少し表情を変えた。
「……まだ戻っていない人がいますね」
ロロも周囲を確認する。
「本当ね」
第一班より先に戻っていてもおかしくない生徒たちの姿が見当たらない。
教授たちも気づいているらしく、名簿を確認しながら何度も遺跡の入口へ視線を向けていた。
レインもそちらを見る。
「少し見てきます」
イシリアがすぐに振り返った。
「一人でですか?」
「その方が早いです。それほど時間はかからないと思います」
先ほどのケルベロスを見た後では、危険だからやめてくださいとは誰も言えなかった。
イシリアは少し考えてから頷く。
「分かりました。気をつけてください」
「はい」
レインは踵を返した。
先ほど出てきたばかりの遺跡へ、今度は一人で戻っていく。
暗い入口の向こうへ、その姿はすぐに消えた。
一方、実習を終えたナヤミたち三人は、教授への報告を済ませると学園への帰路についていた。
三人とも口数は少なかった。
頭から離れないのは、遺跡で起きた出来事だった。
ケルベロスを前に動けなかった自分たち。
即座に戦おうとしたイシリアとロロ。
そして、一瞬で三つの首を斬り落とした年下の護衛。
何より、帰り道で聞こえてきたイシリアとロロの楽しそうな声。
三人はそれぞれに考えを巡らせながら、無言のまま学園へ向かって歩いていった。




