アストレア魔導学園解決へ4
翌朝。
アストレア魔導学園の学園長室には、普段とは異なる重苦しい空気が満ちていた。
窓から朝の光が差し込んでいるにもかかわらず、室内の誰一人として明るい表情を浮かべてはいない。
部屋の中央には、一人の男が椅子へ拘束されていた。
昨夜、図書館で捕らえられたギデオン副学園長である。
杖を握った右手を前へ突き出し、攻撃魔術を放とうとした姿勢のまま、その全身は厚い氷に閉ざされていた。表情には驚愕と焦りが焼き付き、氷像と見紛うほど微動だにしない。
その前へ立ったエレアが、右手を軽く持ち上げた。
指を鳴らす。
澄んだ音が室内へ響いた次の瞬間、ギデオンを覆っていた氷に細かな亀裂が走った。
砕け散ることはない。
氷は表面から淡い光へ変わり、朝靄のように空気へ溶けていく。床へ水滴一つ落とすことなく、数秒後には拘束具に縛られたギデオンだけが残されていた。
「っ……!」
解放された途端、ギデオンの身体が大きく跳ねる。
肺へ一気に空気を吸い込み、激しく咳き込んだ。凍結中も呼吸や生命活動は保たれていたはずだが、全身の感覚が戻った瞬間の衝撃までは避けられなかったらしい。
何度か荒い呼吸を繰り返した後、ギデオンは勢いよく顔を上げた。
「ここは……」
視線が室内を走る。
見慣れた調度品。
壁一面を埋める魔導書。
そして、正面の執務机。
ここが学園長室だと理解するまで、そう時間は掛からなかった。
続いて、傍らに立つレイン、エレア、ピリカへ目を向ける。
その瞳に昨夜の記憶が蘇ったのだろう。
ギデオンは反射的に右手を動かそうとしたが、両腕を拘束する魔導具が鈍い音を立てただけだった。
魔力も練れない。
杖もない。
逃げ場もない。
ようやく自分が置かれた状況を理解したギデオンの顔から、僅かに血の気が引いていった。
その一連の様子を、執務机の向こうに立つ男が黙って見つめていた。
アストレア魔導学園学園長、シンス・アルヴェリオス。
七十代に差しかかった魔導師であり、長い白髪を後ろで一つに束ね、深い青色の法衣を身に纏っている。外見だけなら温厚な学者にも見えるが、その立ち姿には長年この学園の頂点に立ってきた者だけが持つ静かな威厳があった。
アストレアの魔女、その直弟子の一人。
現在のアストレアにおいて、名実ともに最高峰の魔導師の一人である。
シンスの傍らには、副学園長秘書ミレイナも立っていた。
昨夜の図書館で行われたギデオンとのやり取りには、彼女も学園側の証人として立ち会っている。
長年仕えてきた上司が椅子へ拘束されている光景を前に、ミレイナの表情は硬い。それでも視線を逸らすことなく、ギデオンを見つめていた。
シンスはレインたちへ向き直ると、深く頭を下げた。
「まずは、礼を申し上げます。皆さんが動いてくださらなければ、この件は誰にも知られぬまま闇へ埋もれていたでしょう」
学園長という立場を考えれば、冒険者へ向けるにはあまりにも深い一礼だった。
「アストレア魔導学園を代表し、心より感謝いたします」
レインは静かに首を横へ振った。
「依頼を受けた冒険者として、やるべきことをしただけです」
「それでも、です」
シンスは短く答えると、ゆっくり顔を上げた。
その視線がギデオンへ向けられる。
怒声を上げることも、露骨に睨みつけることもない。
しかし、その静かな眼差しは、怒りよりも重かった。
ギデオンとシンスは、決して仲の良い間柄ではなかった。
同じ師の下で学んだ時期こそあるが、研究方針も、学園運営に対する考え方も異なっていた。長年にわたり幾度となく対立し、時には互いを政敵として牽制し合ってきた。
それでも、同じ時代のアストレアを支えてきた魔導師であることに変わりはない。
だからこそ、今のギデオンへ向けられる視線には、単純な敵意では言い表せない重さがあった。
「ギデオン」
シンスが静かに名を呼ぶ。
「昨夜の件について、改めて聞かせてもらおう」
室内が静まり返る。
ギデオンはしばらく何も答えなかった。
拘束具に閉じ込められた両手へ視線を落とし、そのまま動かない。
やがて、諦めたように息を吐いた。
「……力が欲しかった」
掠れた声だった。
その一言に、ミレイナの肩が僅かに揺れる。
シンスは表情を変えず、続きを待った。
「古代魔法も、禁呪も、所詮は知識だ。知識そのものに善悪などない。扱える者が、正しく扱えばいい」
「その正しく扱える者が、自分だと?」
シンスの問いに、ギデオンはゆっくり顔を上げた。
「私は誰にも劣っていない」
その声には、拘束されてもなお消えない自負が滲んでいた。
「研究でも、魔法でも、多くの者を上回ってきた。それでも届かなかった。どれほど積み重ねても、最後の一線を越えられなかった」
ギデオンの視線が、一瞬だけシンスへ向く。
そこにあった感情が嫉妬なのか、敗北感なのか、あるいはもっと別のものなのかは分からない。
「だから、力を求めた。それだけだ」
「そのために教授を殺したのですか」
ミレイナの声が震えた。
ギデオンは彼女へ視線を向ける。
「奴は私の間者だった」
昨夜、ピリカを前に語ったのと同じ言葉を、今度は何の迷いもなく口にした。
「情報を流す代わりに金を渡していた。だが、あの男は欲を出した。さらに金を要求し、それが受け入れられなければ全てを公表すると、この私を脅した」
「それだけの理由で……」
「それだけ?」
ギデオンの声が低くなる。
「才能の欠片もなく、金で教授の地位を手に入れたような男が、この私を脅したのだぞ」
ミレイナは何も返せなかった。
ギデオンにとって、教授の命は自分の誇りより軽かった。
それを理解してしまったからだろう。
シンスはしばらくギデオンを見つめた後、静かに目を閉じた。
「……分かった」
短い言葉だった。
そこに同情はない。
かといって、勝ち誇るような響きもなかった。
長年争ってきた相手が自ら転落したことを喜ぶほど、シンスにとってこの問題は軽くない。
「だが、この件はお前一人を捕らえて終わる話ではない。禁呪研究への関与、教授殺害、失踪者たちとの関係。確認すべきことは数多く残っている」
ギデオンは答えない。
シンスはミレイナへ視線を向けた。
「学園内の調査を開始する。関係者への聞き取りを最優先に。ギデオンの身柄は学園警備部へ引き渡し、外部との接触を禁じる」
「承知いたしました」
ミレイナは深く頭を下げた。
レインたちにも異論はなかった。
昨夜の一件で、ギデオンが教授を殺害したことは明らかになった。
だが、地下施設へ集まっていた者たちが何を目的とし、ギデオンがどこまで関わっていたのかは、まだ分からない。
禁呪研究そのものについても、これから調べなければならなかった。
シンスは改めてレインたちへ向き直る。
「皆さんには重ねて感謝します。残りのことは、学園が責任を持って対応します」
「分かりました」
レインが答えると、シンスは静かに頷いた。
「いずれ改めて、正式に礼をさせてください」
レインたちは一礼し、学園長室を後にした。
向かう先は、イリシアたちが待つ屋敷だった。
◇◇◇
イリシア邸へ戻ると、応接室ではイリシアとリーヴェが待っていた。
扉が開いた瞬間、ソファに座っていたイリシアが勢いよく立ち上がる。
「レインさん、エレアさん!」
張り詰めていた表情が、二人の姿を確認した途端に少しだけ緩んだ。
「お帰りなさいませ」
リーヴェも静かに頭を下げたが、その視線はレインたちの様子を素早く確かめていた。
ピリカも交えた五人が席へ着くと、使用人によって温かな紅茶が運ばれてくる。
しかし、すぐに口を付ける者はいなかった。
最初に口を開いたのはレインだった。
「今日あったことをお話しします」
短く前置きし、昨夜から今朝までの経緯を順に説明していく。
夜の図書館でピリカがギデオンを誘い出したこと。
禁書の断片を使い、教授殺害へ繋がる言葉を引き出したこと。
ギデオンが教授を殺した理由。
その後、エレアがギデオンを拘束し、学園側の証人としてミレイナにも立ち会ってもらったこと。
そして今朝、学園長シンスと面会したこと。
話を聞き終えたイリシアは、胸元で小さく手を握った。
「……ギデオン副学園長が、教授を」
「本人が認めました」
エレアが答える。
「ただし、事件の全容が明らかになったわけではありません。学園側も正式に調査を始めます」
リーヴェは神妙な表情で頷いた。
「力を得るために、そこまで……」
部屋へ短い沈黙が落ちる。
その空気を破ったのはピリカだった。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように手を打つ。
「私たちの方も話さなきゃね」
レインが視線を向ける。
「ミレイナさんから教授が殺されたって聞いた時、みんな同じことを考えたでしょ?」
「学園側の人間が関わっている可能性ですね」
リーヴェが答えると、ピリカは頷いた。
「そう。だから、全員で副学園長さんのところへ行くのは危ないと思ったよね」
あの朝、レインたちは学園へ向かう途中で役割を分けていた。
レインとエレアは、予定どおりギデオンの元へ。
一方で、ピリカ、イリシア、リーヴェの三人は別行動を取り、図書館地下に集まっていた者たちの元へ向かったのだ。
「私たちが地下へ行った時には、まだ皆さん残っていました」
イリシアが話を引き継ぐ。
「突然現れたので、すごく警戒されましたけど」
「当然でしょうね」
エレアが苦笑する。
「でも、教授が殺されたことと、学園の中に関係者がいるかもしれないって説明したら、すぐに話を聞いてくれたよ」
ピリカは紅茶へ手を伸ばしながら続ける。
「逃げてって言ったの。あの場所に残ってたら、次に何が起きるか分からないから」
地下へ集まっていた者たちは、禁呪を悪用するために研究していたわけではなかった。
彼らが求めていたのは、あくまで知識である。
どれほど危険な技術であっても、存在する以上は正しく調べ、後世へ残すべきだ。
それが彼らの考えだった。
一般的な倫理観から見れば、危うい思想に違いない。禁じられた知識へ手を伸ばし、学園へ無断で地下施設まで作っていた以上、何の罪もないとは言えないだろう。
それでも、教授を殺した者たちでもなければ、禁呪を使って誰かを傷つけていたわけでもない。
事情を聞いた者たちは、しばらく話し合った末、地下施設から出ることを決めたという。
「それで、資料をどうするかって話になったんだけど」
ピリカはそこでイリシアへ顔を向けた。
「全部置いていけば、誰かに悪用されるかもしれない。でも、持ち出すには量が多すぎる」
壁一面の書棚。
机へ積み上げられた研究資料。
禁書の写本や解読記録。
魔導具や古代文字の刻まれた石板まで含めれば、馬車を何台用意しても足りないほどの量だった。
「そこでイリシアの出番」
四人の視線が一斉に集まる。
イリシアは少し照れたように膝の上へ置いた小さなバッグへ手を触れた。
外見だけなら、上質ではあるものの、ごく普通の肩掛け鞄にしか見えない。
「お父様から持たされた、収納用の魔法のバッグを使いました」
レインはバッグとイリシアを交互に見る。
「どれくらい入るのですか」
「正確には分かりませんけど……」
イリシアは少し考えた後、応接室を見回した。
「多分、この屋敷一軒分くらいでしょうか」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
レインが僅かに目を瞬かせる。
「屋敷一軒分ですか」
「はい」
イリシアは当然のように頷いた。
「本棚も、資料も、魔導具も、全部入りました。まだかなり余裕もありますよ」
ピリカが呆れたように肩を竦める。
「多分、国宝級だよね。あれ」
「私も初めて使いました」
「初めて?」
「お父様が、旅先で必要になるかもしれないからって」
何に使うことを想定していたのか。
少なくとも、十三歳の娘が旅先で屋敷一軒分の荷物を持ち運ぶ機会など、そうそうあるとは思えない。
皆の視線が自然とリーヴェへ集まる。
リーヴェは紅茶を一口飲むと、困ったように微笑んだ。
「お嬢様のお父様は、心配性ですから」
「ああ……」
レイン、エレア、ピリカの声が綺麗に重なった。
イリシアだけが不思議そうに首を傾げている。
重苦しかった部屋の空気が、ようやく僅かに和らいだ。
教授殺害。
副学園長の拘束。
禁呪研究に関わる者たちの失踪。
すべてが終わったわけではない。
それでも、それぞれが自分にできる役目を果たしたことで、事件は確かに次の段階へ進み始めていた。




