アストレア魔導学園解決へ2
約一時間後。
レインとエレアは、ギデオンと四名の警備職員を伴い、図書館の研究区画へ戻ってきた。
教授殺害の影響で学園内の警戒は厳しくなっていたが、この区画に騒ぎは届いていない。利用者の少ない廊下には人影もなく、一行の足音だけが静かに響いている。
レインは廊下の突き当たりにある扉の前で足を止めた。
「この部屋です。」
一見すれば、何の変哲もない研究室だった。
古びた木製の扉には部屋番号を記した小さな札が掛けられ、長く使われていないのか、取っ手には薄く埃が積もっている。
しかし、その扉全体を覆うように魔法結界が張られていた。
ギデオンは扉へ近づくと、結界へ触れないぎりぎりの位置で目を細めた。
「施錠と警戒を兼ねた術式ですね。正規の鍵がなければ、触れた時点で術者へ異常を知らせる仕組みになっています。」
警備職員の一人が驚いたように扉を見る。
「学園の管理記録には、このような結界の申請はありません。」
「無許可で施されたのでしょう。」
ギデオンの声から、それまで残っていた迷いが消えた。
地下施設の存在は、まだ実際に確認できていない。だが、使われていない研究室へ無許可の結界が施されている時点で、レインの報告を疑う余地はほとんどなかった。
ギデオンはレインとエレアへ顔を向ける。
「昨夜は、どのように中へ?」
「ピリカに解除してもらいました。」
レインが正直に答えると、ギデオンはわずかに意外そうな顔をした。
「俺には無理です。強引に開けるだけなら簡単ですが、警報を出さず、痕跡も残さずとなると時間が掛かります。」
レインの言葉に、四名の警備職員が揃って複雑な表情を浮かべた。
結界の破壊なら簡単。
さらりと口にしたが、目の前の術式は学園の警備を担当する魔導師でも即座に突破できるような代物ではない。
ギデオンだけは特に驚いた様子もなく、扉へ向き直った。
「でしたら、ここは私がやりましょう。」
法衣の内側から細身の杖を取り出し、その先端を結界へ向ける。
淡い光が扉の表面をなぞった。
浮かび上がったのは、大小十数個の魔法陣だった。それぞれが細い魔力の線で結ばれ、一つを不用意に崩せば残りの術式が即座に作動する構造になっている。
ギデオンは魔法陣をしばらく観察した後、杖先を静かに動かした。
結界を力で押し潰すのではない。
術式を構成する魔力の流れを読み取り、絡み合った糸を一本ずつほどいていく。
最初の魔法陣から光が消える。
続いて二つ目。
三つ目。
解除された箇所を補おうと別の術式が動き始めるより早く、ギデオンは接続部分を切り離していった。
淀みのない手際だった。
四名の警備職員は声もなく、その姿を見つめている。
副学園長という役職ばかりが知られているが、ギデオンもまた、この魔法都市で長く研究と教育に携わってきた一流の魔導師である。その事実を、レインたちも初めて目の当たりにしていた。
やがて最後の魔法陣が淡く明滅し、音もなく消えた。
ギデオンは杖を下ろす。
「解除しました。警報も作動していません。」
エレアが扉に残る魔力を確認し、素直に感心したように告げる。
「お見事です。」
「専門分野の一つですから。」
ギデオンは穏やかに返したが、その視線は扉の奥へ向けられたままだった。
警備職員の一人が取っ手へ手を掛ける。
扉は抵抗もなく開いた。
室内には誰もいない。
机と椅子、壁際の書棚が残されているだけで、長く使われていない研究室にしか見えなかった。
ギデオンが室内へ踏み込み、辺りを見回す。
「地下への入口はどこです?」
レインは壁際に並ぶ書棚へ歩み寄った。
「この奥です。」
決められた位置にある本へ指を掛け、そのまま手前へ引く。
内部で小さな金属音が鳴り、三つ並んだ書棚の中央がゆっくりと横へ動いた。
その背後から、地下へ続く狭い階段が現れる。
警備職員たちの間に動揺が走った。
「このような仕掛けが……。」
「管理図面にもありません。」
ギデオンも言葉を失ったまま、暗い階段の奥を見つめていた。
だが、すぐに表情を引き締める。
「進みましょう。」
一行は魔導灯を灯し、階段を下りていく。
地下へ降りるほど空気は冷たくなり、地上の物音も遠ざかっていった。
やがて階段の先に、もう一枚の扉が現れる。
昨夜、ピリカが解除した二つ目の結界だ。
レインたちが侵入した痕跡を消すために張り直した術式は、今も正常に作動している。
ギデオンは扉の前へ立つと、表情を曇らせた。
「こちらは先ほどより複雑ですね。」
「時間が掛かりそうですか。」
警備職員の問いに、ギデオンは魔法陣を見つめながら首を横へ振る。
「構造は複雑ですが、系統は同じです。術者もおそらく同一人物でしょう。」
再び杖を掲げる。
今度の結界は、解除への抵抗まで組み込まれていた。
一つの術式を解けば、別の魔法陣が形を変えて接続し直そうとする。だがギデオンは慌てることなく魔力の流れを追い、変化するより先に術式の核を見つけ出した。
杖先が中央の一点へ触れる。
結界全体を巡っていた光が止まり、幾重にも重なっていた魔法陣が外側から順に崩れていった。
「あれ?おかしいですね?」
「どうしました?」
警備員の1人がギデオンへ尋ねる。
「同一人物が結界を張ったと思ったのですが…」
三十分後、ギデオンの顔から焦りが見えた。
「ふー解除しました。」
ギデオンの声を合図に、警備職員二名が扉の左右へ立つ。
残る二名が杖を構えた。
レインとエレアも気配を探る。
扉の向こうから人の気配は感じられない。
ギデオンが取っ手へ手を掛け、ゆっくりと扉を押し開けた。
広間へ魔導灯の光が差し込む。
誰もいなかった。
昨夜、数十人の教授や研究員、学生たちが集まっていた地下広間は、息を潜めたように静まり返っている。
中央には長机と椅子が残されていた。
壁際の書棚も、照明器具も、壇上さえそのままだ。
だが、人だけがいないのではない。
本がない。
資料がない。
書棚には一冊も残されておらず、机の上にも紙一枚落ちていなかった。昨夜、壇上の男が手にしていた禁呪資料はもちろん、参加者たちが読んでいた冊子や筆記具まで、すべて持ち去られている。
「……何だ、これは。」
先頭にいた警備職員が立ち尽くす。
別の一人が空になった書棚へ駆け寄り、棚板を確認した。
「何もありません。奥にも、下にも……完全に空です。」
ギデオンも広間へ足を踏み入れたが、すぐには言葉を発せなかった。
その間にレインとエレアは左右へ分かれ、室内の痕跡を調べていく。
綺麗に撤収したように見えて、細部には慌ただしさが残っていた。
椅子の一脚が倒れている。
床には重い木箱を引きずった跡が走り、壁際には何かをぶつけて削れた新しい傷もあった。
長机の端には、途中で消したらしいインクの染みが残っている。
「急いで逃げたようね。」
エレアが床の擦れ跡へ視線を落とす。
「ええ。ただし、持ち出す物は最初から決まっていたようです。」
レインは空の書棚を見ながら答えた。
机や椅子など、事件の証拠になりにくい物は残している。
その一方で、組織や研究内容へ繋がる物は紙一枚残していない。
突然の撤収ではあるが、逃走手順そのものは事前に用意されていたのだろう。
ギデオンは広間の中央に立ったまま、低い声で何かを呟き始めた。
「昨夜までは、ここにいた……。」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
「教授が殺害されたのは未明……。発見は日の出の後……。」
広間を見回し、床の跡へ目を向ける。
「この量の資料を運び出すには、人手が要る。だが、図書館の夜間警備から報告は上がっていない……。」
さらに小さく首を振った。
「いや、警備記録そのものが正しいとは限らない。です」
「地下施設を半年以上隠し続け、失踪した五人までここへ出入りさせていた……。」
「偶然ではない。」
「誰かが知らせた。」
四名の警備職員が息を呑む。
ギデオンは彼らの反応にも気づかず、考えを整理するように言葉を重ねていく。
「教授が殺されたことか……それとも、我々が動き始めたことか。」
「どちらにせよ、情報が早すぎる。」
「学園の内部に……やはり誰かいる。」
最後の言葉だけが、静まり返った地下広間へ重く響いた。




