カルドニア王国
カルドニア王国王都――
王城深部に設けられた軍議室には、この国の軍事を担う重臣たちが静かに席へ着いていた。
窓の外では王都の喧騒がいつもと変わらず広がっている。しかし、この部屋だけは別世界のような静寂に包まれていた。
長机いっぱいに広げられた地図には、ノルガルト侯国南部国境一帯が細かく描き込まれている。
その地図を見つめる者はいても、誰一人として口を開こうとはしなかった。
やがて軍務大臣が静かに椅子へ深く腰掛け、小さく息を吐く。
「……数年だ。」
低く押し殺した声だけが軍議室へ響いた。
「我らは数年を費やし、ノルガルト侯国へ人を送り、資金を流し、兵を潜ませ、ようやく反乱を起こすところまで漕ぎ着けた。」
誰も相槌を打たない。
その歳月と労力を、この場にいる者たちは誰より知っている。
反乱軍へ送り続けた兵糧。
武具。
資金。
そして極秘裏に築き上げた兵站網。
そのすべては、ノルガルト侯国を内側から崩壊させるため、長い年月をかけて積み重ねてきた布石だった。
「……だが、その全てを失った。」
静かな一言だった。
怒鳴る者はいない。
机を叩く者もいない。
その必要すらないほど、この場にいる全員が現実を理解していた。
首謀者の多くは処刑され、一部だけが命からがら国境を越えて亡命した。
王家は生き残り、国民の支持も取り戻した。
今後、ノルガルト侯国がアルディア王国との関係を深めていくことは避けられないだろう。
苦い敗北だった。
しかし、この場へ集められた理由は敗戦を嘆くためではない。
軍務大臣はゆっくりと国境地帯へ視線を落とした。
「……本題へ入ろう。」
その一言で室内の空気が変わる。
自然と全員の視線が地図の南方国境へ集まった。
そこには、数年前から極秘裏に築き上げた二つの兵站村と、ノルガルト侯国へ続く補給路が赤い線で記されている。
軍務大臣は静かに口を開いた。
「反乱軍は敗れた。」
「それは、もう終わった話だ。」
「私が知りたいのは一つだけ。」
ゆっくりと指先を地図へ置く。
「誰が――我らの兵站を潰した。」
重い沈黙が軍議室を支配する。
やがて軍務大臣は一人の男へ視線を向けた。
「南方軍総司令官。」
「現状を報告せよ。」
「はっ。」
南方軍総司令官は静かに立ち上がった。
怒りも焦りも表情には浮かんでいない。
ただ、長年戦場を渡り歩いてきた歴戦の将だけが持つ冷静さがあった。
「諸君も承知しているとおり、反乱軍への補給は決して場当たり的なものではありませんでした。」
落ち着いた声が軍議室へ響く。
「兵糧、武具、予備装備、軍馬。そのすべてを国境付近で集積し、商隊へ偽装してノルガルト侯国内へ送り込む。」
「この兵站網を築くまで、我々は数年という歳月を費やしております。」
一人の将軍が静かに頷いた。
「あの二つの村は、外から見ればどこにでもある開拓村でした。しかし実態は違う。」
「住民に見える者は全員が訓練を受けた兵士。子どもを一人も置かなかったのも、万が一に備えての判断でした。」
別の将軍が続ける。
「完成まで二年。」
「存在を知る者も極めて限られていました。国内ですら詳細を把握していたのは、この場にいる者たちと南方軍の一部だけです。」
それほどまでに秘匿された兵站拠点だった。
敵国はもちろん、自国の貴族ですら全貌を知らない。
だからこそ理解できない。
「それが、同日に失われた。」
誰かが小さく呟く。
その一言だけで、部屋の空気はさらに冷え込んだ。
南方軍総司令官は一人の将軍へ視線を向ける。
「現地を確認したのは貴官だったな。」
「はい。」
立ち上がったのは五十代半ばの将軍だった。
長年兵站を任されてきた実務派の将であり、村の壊滅後、自ら現地調査を行った人物でもある。
男はしばらく言葉を選ぶように沈黙すると、静かに口を開いた。
「……正直に申し上げます。」
その表情は、歴戦の将とは思えないほど険しかった。
「私は三十年以上、戦場を見てまいりました。」
「国同士の総力戦も、超越者同士の激戦も、この目で見ています。」
一度息を吐く。
「ですが――あのような現場は、初めてでした。」
誰も話を遮らない。
男は当時の光景を思い返すように続けた。
「最初に第一の村へ入りました。」
「あそこには二百を超える兵士と、一名の超越者が駐留していました。」
「本来なら、防衛戦の痕跡が残るはずです。」
「敵を迎え撃った跡、敗走した跡、最後まで抗戦した痕跡……戦場には必ず戦いの流れが刻まれます。」
男はゆっくり首を横へ振った。
「……ありませんでした。」
「何一つ。」
「兵士たちがどう戦ったのか。」
「超越者がどこで迎え撃ったのか。」
「最後まで抵抗したのか。」
「何も分からない。」
将軍たちの表情が僅かに曇る。
「あったのは、村だった場所だけです。」
「建物も、兵士も、物資も、村そのものが巨大な力によって一瞬で消し飛ばされたように失われていました。」
「草木すら残っておりません。」
「戦場というより……。」
男は言葉を切った。
軍務大臣が静かに促す。
「続けろ。」
男は深く頷いた。
「……巨大な災厄が、一瞬だけ村を通り過ぎた。」
「私には、そのようにしか見えませんでした。」
部屋の誰も、その言葉を否定しなかった。
男は一度言葉を切ると、机上へ広げられた地図へ静かに視線を落とした。
「しかし、本当に理解できなかったのは、その後です。」
軍議室の空気が僅かに張り詰める。
「私は第一の村を調査したあと、その足で第二の村へ向かいました。」
「同日に壊滅した以上、同じ手口による襲撃だろうと考えていたのです。」
男は苦く笑う。
「……その考えは、現地へ着いた瞬間に覆されました。」
「何が違った。」
軍務大臣が静かに問う。
「すべてです。」
男は迷いなく答えた。
「第一の村には、圧倒的な力で村そのものを押し潰した痕跡がありました。何が起きたのかは分かりません。しかし、一瞬で決着がついたことだけは理解できます。」
「ですが、第二の村は違いました。」
男の声がさらに低くなる。
「あれは……理解の外です。」
軍議室は静まり返る。
男は当時の光景を思い返すように目を閉じ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「建物は激しく焼け落ちていました。兵糧庫も武器庫も焼失し、火は長時間燃え続けたのでしょう。」
「ですが、私の目を引いたのは炎ではありません。」
一拍置く。
「兵士たちの遺体です。」
その一言だけで、室内の空気がさらに重く沈んだ。
「あの場にいた兵士は、全員死亡していました。」
「まともな姿を残していた遺体は、ほとんどありません。」
男は静かに続ける。
「腕や脚を失った者。」
「胸から上を消し飛ばされた者。」
「下半身だけを残して倒れていた者。」
「中には、血痕と僅かな肉片しか残っていない者までおりました。」
歴戦の将たちですら、顔色を変えずにはいられなかった。
「損傷の仕方に統一性はありません。」
「剣で斬られたとも、通常の魔法を受けたとも考えられませんでした。」
男はゆっくり首を振る。
「爆発であれば周囲の地形や建物にも同じような破壊が残るはずです。しかし違いました。」
「建物が原形を保っている場所のすぐ隣で、兵士だけが跡形もなく消えている場所さえあったのです。」
一人の将軍が眉をひそめる。
「人間だけを狙ったというのか……。」
「そう考えるほかありません。」
男は静かに頷いた。
「しかも、それが二百を超える兵士全員に対して行われています。」
「調査へ同行した兵の中には、その場に立っていられなくなる者も少なくありませんでした。」
誰も言葉を発しない。
男はゆっくり息を吸う。
「超越者はどうだった。」
軍務大臣の問いに、男はしばらく沈黙した。
そして静かに答える。
「……原形をとどめておりませんでした。」
その一言が、軍議室へ重く落ちる。
「周囲には兵士が戦った痕跡や魔法の跡が残っていました。しかし、超越者については、どのような攻撃を受けたのかすら判断できません。」
「遺体の損壊があまりにも激しく、戦闘の経過を推測することさえ不可能でした。」
男は静かに軍議室を見渡した。
「そして二つの村を見比べた時、私はようやく気付きました。」
「これは同じ敵ではない、と。」
重い沈黙が流れる。
「第一の村は、村そのものを消し去るほどの圧倒的な力。」
「第二の村は、人だけを正確に殺し尽くし、最後に証拠を焼き払ったような戦い方。」
「戦い方も、残された痕跡も、あまりにも違い過ぎます。」
男は小さく首を振った。
「同一人物の仕業とは、とても思えませんでした。」
数年をかけて築き上げた二つの兵站拠点。
その両方が同日に壊滅しただけでも異常だった。
だが、現地を調べれば調べるほど、その異常は深まるばかりだった。
一方は、巨大な災厄が村ごと呑み込んだように消え去っている。
もう一方は、人だけを狙って皆殺しにし、最後に炎ですべてを焼き払っていた。
そこに共通する戦い方は存在しない。
あるとすれば、一つだけ。
「……どちらの村にも、生存者はおりませんでした。」
その言葉だけだった。
軍議室に集まった全員が、無意識のうちに地図の南方国境へ視線を落とす。
二つの村は数十キロ離れている。
それを同日に襲撃し、誰一人逃がすことなく壊滅させた。
偶然で片付けられる話ではない。
軍務大臣はゆっくりと椅子へ身を預けると、静かに口を開いた。
「つまり貴官は、少なくとも二人……いや、それ以上の正体不明の超越者が同時に動いたと考えているのだな。」
男は迷うことなく頷く。
「現地を見た私には、それ以外の結論を出すことはできませんでした。」
その言葉を最後に、軍議室は再び重い沈黙に包まれた。




