両軍混乱
北へ向かう街道には、果てしなく兵列が続いていた。
三日前まで王都攻略を目前にしていた反乱軍は、今やカルドニア王国との国境を目指して北へ撤退している。
隊列そのものに乱れはない。
宰相の命令を受けた各軍は、規律を保ったまま黙々と歩みを進めていた。荷馬車は一定の間隔を維持し、騎兵は左右を警戒しながら進む。誰一人として勝手な行動を取る者はいない。
だが、その表情だけは隠せなかった。
兵士たちの顔には困惑と不安、そして拭いきれない疲労が浮かんでいる。
「結局、何があったんだ。」
「補給が来なくなったって話だけは聞いた。」
「それだけで宰相閣下が退却を命じるとは思えん。」
「カルドニア王国で何か起きたんじゃないのか。」
「だったら、どうして誰も説明しない。」
囁き声は隊列のあちらこちらで交わされていた。
三日間の激戦で兵士たちは疲弊している。
そのうえ突然の撤退命令だった。
理由を知らされないまま北へ向かって歩き続ける状況に、不安を抱かない者はいない。
補給が止まったという話は、すでに軍全体へ広まっていた。
しかし、その理由を知る者はほとんどいない。
将校へ尋ねても返ってくるのは「命令だ」「余計な詮索をするな」という言葉だけだった。
その沈黙が、かえって兵士たちの想像を掻き立てる。
「第三軍が離反したらしい。」
「いや、第六軍だ。」
「北部の貴族が兵を連れて領地へ戻ったと聞いた。」
「カルドニア王国が支援を打ち切ったって噂もあるぞ。」
「そんな馬鹿な……。」
真偽も分からない噂だけが、一人歩きを始めていた。
誰も確かな情報を持っていない。
だからこそ、人は都合のいい話を信じる。
不安は静かに軍全体へ広がり続けていた。
その様子を馬上から眺める将校たちもまた、口数は少ない。
彼らも詳しい事情までは知らされていないのだ。
知っているのは、宰相自らが撤退を決断したという事実だけ。
それだけで従うには十分だった。
誰よりも冷静な男が、あえて退く道を選んだ。
ならば、それには必ず理由がある。
将校たちはそう信じ、兵を導き続けていた。
こうして反乱軍は、三日に及ぶ激戦の地を後にした。
一方、その動きを見守る国王軍でも困惑が広がっていた。
昨日まで猛攻を続けていた大軍が、一夜にして北へ退き始めたのである。
あまりにも突然だった。
「……本当に退いていくのか。」
見張り台に立つ兵士が思わず呟く。
隣で魔導具の双眼鏡を覗いていた将校も、小さく頷いた。
「罠には見えん。」
「ですが、あまりにも急です。」
「敵に何か起きた。それだけは間違いない。」
理由は誰にも分からない。
だからこそ軽々しく追撃を命じる者もいなかった。
やがて報告は本陣へ届けられ、アルディオン国王は直ちに諸将を招集する。
敵軍の真意を見極めるため、緊急軍議が開かれることになった。
天幕へ通された男は、泥に汚れた外套を脱ぐこともなく、その場で片膝をつく。
反乱軍へ潜入していた間者だった。
数日に及ぶ潜入任務だったのだろう。
頬は痩せ、目の下には深い隈が浮かんでいる。
それでも、その眼だけは鋭かった。
戦況図を囲む諸将の視線が一斉に男へ集まる。
中央で腕を組んでいたバルドリックは、余計な前置きを求めることなく静かに口を開いた。
「報告せよ。」
間者は深く頭を下げる。
「はっ。反乱軍は現在、北方へ向けて撤退を続けております。」
天幕の中は静まり返っていた。
誰も口を挟まない。
ただ、その続きを待っている。
「撤退命令は現場にも突然伝えられたようです。兵士たちは困惑しておりますが、宰相の命令ということで各軍とも秩序を保ったまま後退しております。」
バルドリックは黙って頷く。
「兵たちの間では補給が途絶えたという話が広まっております。しかし、その原因を知る者はほとんどおりません。」
そこで一度言葉を切り、間者は続けた。
「軍中では補給路が襲われた、カルドニア王国で異変が起きた、北部貴族が離反したなど、様々な噂が飛び交っております。」
天幕の中に、重い沈黙が落ちた。
補給の途絶。
突然の撤退。
そして軍中へ広がる混乱。
どれも看過できない情報だったが、それ以上にバルドリックが気に留めたのは、敵の上層部でさえ理由を伏せているという事実だった。
「本陣の様子はどうじゃ。」
静かな問いに、間者はすぐ答える。
「はっ。上層部も決して平静ではございません。撤退命令そのものには従っておりますが、不満を隠さぬ将もおりました。今後の方針を巡り、軍議では激しい議論もあったようです。」
諸将が顔を見合わせる。
反乱軍ほどの規模になれば、意見の違いは珍しくない。
だが、戦の最中に軍議が荒れるというのは異例だった。
「ほかには。」
「北部貴族の一部が本隊を離れ、領地へ戻り始めております。数はまだ多くありませんが、撤退を機に軍を離れる動きが確認されました。」
その報告に、天幕の空気がさらに張り詰める。
補給の途絶。
突然の撤退。
軍内部の混乱。
そして離反。
反乱軍が劣勢へ追い込まれていることは明らかだった。
しかし、その原因だけが見えない。
「確認できたのは以上です。」
「ご苦労じゃった。下がってしっかり休め。」
間者は深く頭を下げ、静かに天幕を後にした。
扉が閉まるのを待っていたかのように、一人の将が口を開く。
「辺境伯閣下。敵は完全に劣勢です。今なら追撃によって壊滅的な打撃を与えられます。」
「好機です。」
「この機を逃すべきではありません。」
次々と意見が上がる。
三日間の激戦で勝利を掴みかけた今、敵へ止めを刺したいと考えるのは当然だった。
しかし、バルドリックは静かに首を横へ振る。
「追撃はせん。」
その一言で、ざわめきは止んだ。
「敵が劣勢なのは事実じゃ。」
落ち着いた声が天幕へ響く。
「じゃが、撤退の理由も、補給が絶たれた原因も分かっておらん。」
戦況図へ視線を落としたまま続ける。
「戦場で最も恐ろしいのは、分からぬものへ飛び付くことじゃ。」
「誘い込まれておる可能性も否定できぬ以上、退く敵を深追いする理由はない。」
一人の将が小さく頷いた。
「ですが、このまま見逃せば戦力を立て直される恐れも……。」
「構わん。」
バルドリックは迷いなく言い切る。
「それに、相手も同じノルガルト侯国の兵じゃ。」
その言葉に、諸将の表情が引き締まる。
「無意味に血を流させる必要はない。」
戦況図の上を指がゆっくりと動く。
北へ退く反乱軍をなぞり、そのまま王都で止まった。
「我らの目的は、反乱軍を一兵でも多く討つことではない。」
「王都を奪還し、王家の統治を取り戻すことじゃ。」
その一言で、天幕の空気が変わる。
反乱軍が退いた今、王都を守る兵力は確実に減っている。
撤退する敵を追うより、この機を逃さず王都へ進軍する方が遥かに価値は大きい。
諸将も、それを理解していた。
バルドリックは全員を見渡し、力強く命じる。
「各軍は直ちに再編を開始せよ。」
「負傷兵を後方へ移し、兵糧と武具を整える。」
「準備が整い次第、王都へ進軍する。」
一拍置き、天幕へ力強い返答が響いた。
「はっ!」
諸将は一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場へ駆け出していく。
三日に及ぶ激戦で疲弊していた国王軍だったが、その足取りに迷いはなかった。
敵は北へ退いた。
王都へ続く道は、今まさに開かれようとしている。
こうして三日に及んだノルガルト侯国北部決戦は、国王軍の勝利によって幕を閉じた。
しかし、それは内乱の終結を意味するものではない。
反乱軍はなお北方に健在であり、王都には依然として敵勢力が残っている。
国王軍は休む間もなく進軍を開始し、奪われた王都の奪還へ向け、新たな戦いへ歩みを進めるのだった。




