ノルガルト侯国9
「申せ。」
宰相の一言を受け、伝令は乱れた呼吸を押さえながら深く頭を下げた。
「本日、昼に到着する予定だった輸送隊が、いまだ姿を現しておりません。」
将の一人が眉をひそめる。
「遅れているだけではないのか。街道の混雑や車輪の故障など、理由はいくらでも考えられる。」
「その可能性も考え、国境沿いの偽装村へ定時連絡を行いました。しかし……どちらからも応答がありません。」
天幕の空気が、わずかに重くなった。
偽装村との連絡が遅れることはあっても、二か所同時に途絶えることはない。ましてや、そこを経由する輸送隊の未着まで重なっている。偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎていた。
「現地へ伝令は出したか。」
「はっ。最初の連絡が途絶えた直後に一名、輸送隊の未着を確認してからさらに二名を向かわせました。しかし、いずれも戻っておりません。」
将たちの視線が自然と宰相へ集まる。
宰相は答えず、卓上へ広げられた戦況図を見下ろした。
偽装村はカルドニア王国から送られてくる物資を一度集積し、反乱軍側の輸送隊へ引き継ぐための中継地点である。数年前から密かに整備を進め、決起後の軍を支えるために築かれた補給網の要でもあった。
そこからの連絡が、二か所同時に途絶えた。
だが、今この場で結論を急ぐ理由もない。
輸送隊の到着が遅れることは開戦初日にもあった。国境周辺で小規模な事故が起き、連絡が一時的に滞っているだけという可能性も、まだ完全には捨て切れない。
「今夜は予定どおり警戒を続けろ。」
宰相は戦況図から目を離さず、静かに命じた。
「国境方面へ新たな斥候を送る。街道沿いの各中継地点にも連絡を取れ。輸送隊がどこまで進んでいたのか、最後に確認された場所を突き止めるのだ。」
「はっ。」
伝令は一礼し、足早に天幕を出ていった。
その夜の軍議は、それ以上大きな動きもないまま終わった。
誰もが胸の内へ違和感を残していたが、確かな情報がない以上、推測だけで軍を動かすことはできない。翌朝になれば輸送隊が姿を現し、すべて杞憂だったと笑える可能性も残されていた。
しかし、そのわずかな期待は夜明けとともに打ち砕かれた。
翌朝。
反乱軍本陣は、戦支度とは異なる慌ただしさに包まれていた。
本来なら昨日のうちに到着しているはずだった輸送隊は、ついに一隊も姿を現さなかった。
偽装村からの返答もない。
追加で送り出した伝令も、斥候も戻らない。
国境方面へ続く補給網が、まるごと沈黙していた。
それだけではなかった。
「宰相閣下、緊急のご報告です。」
天幕へ駆け込んできた伝令の顔は青ざめ、疲労と焦りを隠し切れていなかった。
「カルドニア側の連絡拠点とも通信が途絶しております。昨夜から定時連絡に応答はなく、国境方面へ向かった使者からも報せがありません。」
天幕の中が静まり返る。
偽装村。
輸送隊。
カルドニア側の連絡拠点。
反乱軍の背後を支えていた三つの繋がりが、ほぼ同時に沈黙した。
偶然では説明できない。
若い将の一人が、困惑を隠せず口を開く。
「何が起きているのですか……。国王軍の別働隊が、すでに国境まで回り込んでいるのでしょうか。」
「分からぬ。」
答えたのは宰相だった。
その声に焦りはない。
「国王軍が動いたのか。他国の介入か。あるいはカルドニア国内で何らかの異変が起きたのか。今の我らには、どれも確かめる術がない。」
宰相は戦況図へ手を添え、そこへ引かれた国境までの補給路を静かになぞる。
「だが、分かっていることはある。」
将たちが口を閉ざす。
「補給は止まった。カルドニア側との連絡も絶たれた。確認へ向かった者たちも戻っていない。」
宰相は指先を止めた。
「原因は不明。だが、この三つは動かしようのない事実だ。」
誰も反論しなかった。
戦では、分からないことを都合よく解釈した者から死んでいく。特に今の反乱軍には、確証のない希望へ賭ける余裕など残されていなかった。
二日続けて戦場の主導権を奪われた。
超越者を一人失い、ガレブも重傷を負って戦線を離脱している。
さらにアルゼス伯爵軍とレイバルト子爵軍が撤退し、それに動揺した複数の部隊でも厭戦の空気が広がり始めていた。
兵力ではなお国王軍を上回っている。
だが、現在の備蓄だけで大軍を維持できる日数には限りがある。次の輸送がいつ届くか分からず、背後で何が起きているのかも把握できない状況で決戦を続ければ、数日のうちに退路まで脅かされかねなかった。
宰相は顔を上げ、天幕に集まった将たちを順に見渡した。
「これより作戦を変更する。」
その一言で、全員の表情が引き締まる。
「昼まで待つ。それまでに輸送隊が到着せず、国境方面との連絡も回復しなかった場合、全軍を大平原から離脱させる。」
将たちの間に、抑え切れない動揺が走った。
「撤退、ですか。」
「そうだ。」
宰相は即答した。
「北方へ後退し、ノルガルト侯国とカルドニア王国の国境付近で軍を再編する。残された物資を集約し、補給網に何が起きたのかを確認した後、改めて次の作戦を決める。」
「しかし、ここで退けば国王軍に勝利を与えることになります。」
「すでに二日続けて押し返されている。」
静かな指摘に、声を上げた将は言葉を失った。
宰相は感情を見せることなく続ける。
「我らの目的は、この大平原で華々しく死ぬことではない。国王を討ち、ノルガルト侯国を掌握することだ。勝てぬ状況で戦い続け、兵も物資も失えば、それこそすべてが終わる。」
天幕へ重い沈黙が落ちた。
撤退を望む者はいない。
だが、誰も宰相の判断を誤りだとは言えなかった。
反乱軍は劣勢へ傾き始めている。補給が届く保証もなく、背後の安全さえ失われた状況で全軍を戦場へ残せば、退く機会そのものを失いかねない。
宰相は戦況図をゆっくりと畳んだ。
「戦は終わっていない。」
その視線は、大平原のさらに北へ向けられていた。
「だが、この戦場で続ける理由は失われた。」
昼を迎えても、輸送隊は現れなかった。
カルドニア側との連絡も回復せず、国境方面へ向かった伝令は一人として戻らない。
正午を告げる鐘が本陣へ響くと同時に、宰相は全軍へ撤退を命じた。
反乱軍の各部隊は陣形を保ったまま戦場を離れ、負傷兵と残された物資を中央へ集めながら北へ進み始める。北方へ続く街道は、兵士と荷馬車の長い列によって埋め尽くされた。
国王軍は追撃しなかった。
二日間の激戦で兵が疲弊していたこともある。だが何より、反乱軍は敗走しているのではなく、将の統制下で秩序を保ちながら後退していた。不用意に追えば陣形を乱され、待ち構えていた部隊から反撃を受ける危険がある。
国王派の将たちは戦列を維持したまま、遠ざかっていく反乱軍を見送った。
やがて最後尾の軍旗が丘の向こうへ消える。
こうして三日間に及んだ大平原の決戦は、国王軍の勝利で幕を閉じた。
反乱軍は多くの兵と二人の超越者を失い、大平原からの撤退を余儀なくされた。王家健在を掲げて集結した国王軍は、兵力で上回る反乱軍の攻勢を退け、ノルガルト侯国中央部を守り抜いたのである。
だが、内乱が終わったわけではない。
宰相も、残された反乱軍も、なお健在だった。
戦場を北へ移しただけで、ノルガルト侯国を二つに割った戦いは、次なる局面へ入ろうとしていた。




