裏ノルガルト侯国6
一方その頃――カルドニア王国との国境沿いでは、レインがただ一人、ノルガルト侯国へ続く街道を歩いていた。
街道には荷馬車が途切れることなく行き交い、商人たちは声を張り上げながら積み荷を受け渡している。傍目には、戦を前に物資の流れが活発になっただけの、ありふれた光景にしか見えない。
だが、レインの視線が追っているのは商人の顔ではなかった。
荷を担ぐ者たちの足運び。
周囲へ向けられる視線。
衣服の下に隠された剣帯の跡。
荷物より先に街道の死角を確かめる目の動きも、腰へ重心を置く立ち姿も、長く武器を握ってきた兵士のものだった。
どれほど商人らしい服をまとい、威勢よく値段を叫んでいても、身体へ染みついた習慣までは隠せない。
レインは歩みを止めることなく、その横を通り過ぎた。
しばらくして、街道の先から悲鳴が上がる。
「火だ!」
レインは懐へ忍ばせていた白い仮面を取り出し、静かに顔へ着けた。
直後、荷馬車の一台が炎に包まれた。
積み上げられていた木箱が次々と燃え上がり、綱を焼かれた積み荷が音を立てて街道へ崩れ落ちる。慌てて消火へ駆け寄る者たちを尻目に、少し離れた別の荷馬車からも黒煙が立ち昇った。
さらに、その奥でも炎が上がる。
「まただ!」
「ノルガルト行きの荷が燃えているぞ!」
「急いで積み替えろ!」
怒号が飛び交う中、白い仮面を着けたレインは別の隊商へ近づいていく。
荷を運んでいた男と、一瞬だけ視線が交わった。
周囲を警戒する目の動き。
一定に保たれた歩幅。
上着の下、腰へ残された剣帯の擦れ。
それだけで十分だった。
次に炎へ包まれたのは、その男が護衛していた荷馬車だった。
焼けるのは、カルドニア王国からノルガルト侯国へ送られる物資だけ。
兵糧。
武器。
矢束。
魔石。
反乱軍へ届けられるはずだった軍需物資が、国境を越えることなく次々と炎へ飲み込まれていく。
最初は事故だと思われた。
二台目が燃えた時点で放火が疑われ、五台目から火の手が上がった頃には、街道全体が騒然となっていた。
商人の格好をしていた男たちは、もはや偽装を続けようともしなかった。
外衣を脱ぎ捨て、隠していた剣を一斉に抜き放つ。
「襲撃だ!」
「白い仮面を探せ!」
「見つけ次第、殺せ!」
カルドニア兵たちの怒号が、燃え盛る街道へ響き渡った。
やがて、荷馬車の間を歩く白い仮面が見つかる。
「いたぞ!」
「囲め!」
号令と同時に、兵士たちが四方からレインへ殺到した。
その動きに迷いはない。商人に扮していたとはいえ、もともとは軍で鍛えられた兵士たちだ。身体強化を施し、互いの死角を補いながら一斉に間合いを詰めてくる。
だが、相手が悪かった。
先頭の兵士が剣を振り上げた瞬間、白い刃が閃く。
何が起きたのか理解する間もなく、男は街道へ崩れ落ちた。
その後ろから踏み込んだ兵士の剣を受け流し、返す刃で首筋を断つ。横合いから迫る槍を半歩だけ退いてかわすと、穂先を握って引き寄せ、その勢いのまま持ち主の胸を貫いた。
「一人だ! 押し潰せ!」
「左右から回れ!」
数を頼みに、さらに兵士たちが押し寄せる。
しかし、レインは一歩も退かなかった。
迫る刃を最小限の動きでかわし、必要な攻撃だけを弾き、その流れのまま急所へ剣を走らせる。
無駄な一太刀は一つもない。
一人が踏み込めば、一人が倒れる。
二人が同時に斬りかかれば、交差した瞬間には二人とも地面へ伏している。
剣戟が響くたび、カルドニア兵の数だけが確実に減っていった。
やがて、兵士たちの足が止まった。
街道には仲間の亡骸が幾重にも重なり、その向こうで白い仮面が静かに剣を構えている。
誰も踏み込めない。
踏み込めば死ぬ。
その事実を、倒れた仲間たちが何より雄弁に物語っていた。
レインは刃に付着した血を軽く振り払い、静かに告げる。
「引け。」
兵士たちは動かなかった。
いや、動けなかった。
怒りはある。
任務を放棄するわけにはいかないという使命感も残っている。
それでも目の前の男へ向かう勇気だけが、すでに誰の身体にも残されていなかった。
「これ以上、死にたい者だけ来い。」
感情のない声だった。
挑発でも、脅しでもない。
ただ事実を告げただけの一言が、兵士たちから最後の一歩を奪った。
焦げた荷馬車が崩れ落ちる音を挟み、白い仮面と兵士たちはしばらく睨み合う。
重苦しい沈黙を破ったのは、後方にいた一人の兵士だった。
「来られたぞ!」
全員の視線が街道の先へ集まった。
燃え上がる荷馬車の向こうから、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
馬を使うこともなく、急ぐ様子さえない。
だが、その姿を認めた兵士たちの表情から、張り詰めていた緊張が一気にほどけていった。
「カマロ様だ!」
「カマロ様がお見えになったぞ!」
「これで終わりだ!」
兵士たちは安堵の声を上げ、左右へ道を開ける。
カマロは焼け落ちた荷馬車と、街道へ倒れた兵士たちを一瞥した。
その顔に動揺はない。
最後に白い仮面へ視線を向けると、腰の剣を静かに抜き放った。
「これほど暴れたのだ。多少は楽しませてくれるのだろうな。」
レインは何も答えない。
白い仮面の奥から向けられる視線は微動だにせず、剣を構え直しただけだった。
「その沈黙、嫌いではない。」
カマロの姿が消えた。
直後、レインの背後から剣が迫る。
振り向くことなく身を沈めた頭上を刃が通り過ぎ、切断された髪が数本だけ宙を舞った。
レインが振り返るより早く、カマロは再び消える。
右。
左。
背後。
短距離転移を繰り返し、死角から斬撃を重ねていく。
だが、レインはすべての攻撃を紙一重でかわしていた。
「ほう。」
カマロの声に、わずかな感嘆が混じる。
正面から放たれた突きを受け流した直後、カマロの剣だけが手元から消えた。
次の瞬間、その刃はレインの頭上へ現れる。
レインは半歩横へずれ、振り下ろされた剣を避けた。
剣は地面へ触れる寸前で再び消え、今度は足元から跳ね上がるように出現する。
だが、その斬撃も空を切った。
「剣の転移まで見切るか。」
カマロは初めて口元を歪めた。
剣を手元へ戻すと同時に、左手から火球を放つ。
炎の塊が一直線にレインへ迫った。
レインが横へ身をかわす。
その瞬間、火球が空中から消えた。
直後、かわした先の真横から炎が現れる。
熱風が白い仮面を掠めた。
さらにカマロ自身が背後へ転移し、剣を薙ぎ払う。
レインは身を沈めて斬撃をかわし、そのまま地面を蹴った。
姿が消えたように見えるほどの速度でカマロの間合いから離れ、数十歩先へ着地する。
「……転移ではないな。」
カマロの笑みが深まる。
「純粋な速さだけで、俺の転移へついてくるか。」
レインは剣を静かに構えた。
「遅い。」
空気が止まった。
それまで余裕を浮かべていたカマロの目から、笑みが消える。
「言ってくれる。」
次の瞬間、カマロは剣を正面へ投げ放った。
放たれた剣が途中で姿を消し、同時にカマロ自身も転移する。
剣はレインの背後。
カマロは正面。
さらに左右から二つの火球が出現した。
四方向からの同時攻撃。
逃げ場などない。
だが、レインの姿は攻撃が届くより先に掻き消えていた。
剣と火球が何もない空間で激突する。
爆炎が広がる中、カマロは即座に気配を探った。
右にはいない。
左にも、背後にもいない。
「上か!」
見上げた瞬間、白い仮面が視界へ入る。
レインは落下の勢いを乗せ、剣を振り下ろした。
カマロは咄嗟に転移する。
轟音とともに地面が裂け、土煙が舞い上がった。
森の入口へ出現したカマロは、息を整えることもなく次の転移へ移ろうとする。
だが、その直前。
首筋へ冷たい刃が触れた。
「な――」
背後には、すでにレインが立っていた。
カマロが転移先へ現れるより早く、そこへ先回りしていたのである。
反射的に身体ごと転移させる。
森の奥。
次は街道脇の岩場。
さらに木々の上へ。
だが、どこへ転移しても白い仮面が先に待っていた。
「馬鹿な……!」
短距離転移は、カマロがこれまで幾多の強敵を翻弄してきた切り札だった。
転移先を予測されることはある。
だが、出現するより先に追いつかれたことなど一度もない。
「ならば、追うまでだ。」
自らへ言い聞かせるように告げ、カマロは街道から姿を消した。
レインも同時に地面を蹴る。
二つの姿は兵士たちの視界から消え、戦いの場は街道から深い森の奥へ移っていった。
取り残された兵士たちは互いの顔を見合わせる。
「転移だ!」
「カマロ様が追ったぞ!」
「勝負は決まった!」
誰もがそう信じていた。
カマロは超越者であり、短距離転移を自在に操る。この地形ならば、森の中を逃げる相手など容易に追い詰められるはずだった。
しかし、いつまで待っても戦闘音は聞こえてこない。
森の奥。
街道の先。
木々の上。
どこにも二人の姿は見えなかった。
「見えるか?」
「いや……。」
「カマロ様が奥へ追い込んでいるはずだ。」
誰かが口にすると、周囲の兵士たちも不安を押し殺すように頷く。
だが、静寂は長く続いた。
「……遅いな。」
「決着がついたなら、そろそろ戻られる頃だ。」
「まさか、さらに森の奥まで――」
その時だった。
草を踏む、わずかな音が聞こえた。
兵士たちが一斉に振り向く。
木々の間から現れたのは、白い仮面だった。
レインは何事もなかったように街道へ戻ると、兵士たちの前を通り過ぎようとする。
「……カマロ様は。」
一人の兵士が、震える声で尋ねた。
レインは歩みを止めない。
「殺した。」
一瞬、誰も言葉を発せなかった。
次の瞬間、現実を拒むような怒声が飛ぶ。
「馬鹿を言うな!」
「カマロ様が負けるはずがない!」
「どこだ! どこにおられる!」
レインはようやく足を止め、森の奥へ顔を向けた。
「迎えに行け。」
兵士たちは半信半疑のまま森へ駆け込んでいく。
しばらくして、奥から悲鳴にも似た叫びが上がった。
「カマロ様……!」
数人の兵士が青ざめた顔で戻ってくる。
その肩には、力なく垂れ下がるカマロの亡骸が担がれていた。
胸元には一筋の深い斬撃。
剣を抜く暇すらなかったのか、その右手は柄を握ったまま動かなくなっている。
街道から、すべての音が消えた。
燃え続ける荷馬車の爆ぜる音だけが、不自然なほど大きく響く。
レインは兵士たちを見渡し、感情のない声で命じた。
「倒れた兵士を回収して引け。」
一人の兵士が、震える手で剣を握り直す。
「まだ……終わって――」
言い終えるより早く、レインが一歩前へ出た。
それだけで、街道の空気が一変する。
喉を締めつけるような重圧が辺りを覆い、兵士たちは一斉に息を呑んだ。全身の毛が逆立ち、足は地面へ縫い付けられたように動かない。
目の前に立っているのは、一人の男。
ただ、それだけのはずだった。
それでも彼らの本能は、これ以上ないほど明確に警告していた。
――剣を抜けば死ぬ。
「……撤退。」
掠れた声が、静寂を破った。
誰も反論しなかった。
兵士たちはカマロの亡骸を抱え上げ、街道へ倒れた仲間たちを回収していく。白い仮面から目を離さぬまま、ゆっくりと後退し、やがて燃え残った荷馬車とともに街道の彼方へ姿を消した。
その背中が完全に見えなくなるまで、レインは動かなかった。
やがて剣を鞘へ収め、焼け落ちた補給物資へ一度だけ視線を向ける。
ノルガルト侯国へ送られるはずだった兵糧も、武器も、魔石も、すでに運び出せる状態ではない。
任務は完了した。
レインは静かに踵を返す。
白い仮面は深い森へ溶け込むように歩き出し、そのままノルガルト侯国へ続く山道へ姿を消した。




