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英雄なのか?  作者: よろず
ノルガルト侯国内戦
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裏ノルガルト大戦4


「……まずい。」


その一言は、誰に聞かせるでもなく超越者の口から漏れた。


理屈で考えた結果ではない。目に映る光景でも、耳に届く音でもなかった。幾多の実戦を潜り抜けてきた本能が、目の前に立つ女を今すぐ殺せと警告している。


あるいは、すべてを捨てて逃げろ、と。


エレアは傷だらけだった。


肩口は裂け、頬を伝う血が顎から滴り落ちている。身にまとったローブも各所が破れ、白い肌には幾筋もの傷が刻まれていた。誰が見ても、追い詰められているのは彼女の方だった。


それなのに、恐怖を覚えているのは男だった。


(違う……)


超越者はエレアから目を離せない。


乱れた銀髪を朝風に揺らし、静かに立つ彼女の顔には、焦りも怒りも浮かんでいなかった。青い瞳は目の前の敵だけではなく、村全体を見渡すように澄み切っている。


その眼差しを正面から受けた瞬間、ようやく理解した。


狩る側と狩られる側は、いつの間にか入れ替わっていた。


「隊長!」


背後から悲鳴が上がる。


「足が動きません! 助けて――」


男は最後まで聞かなかった。


聞いている余裕など、もはや残されていない。


助けを求める部下も、燃え上がる兵糧庫も、この補給拠点そのものも、今の超越者にはどうでもよかった。


生き残る。


そのためには、目の前の女を今ここで消し去るしかない。


「全員、伏せろォォォッ!」


怒号とともに、超越者は両腕を大きく広げた。


直後、村全体が悲鳴を上げた。


地面が割れ、石畳が端からめくれ上がる。倒壊しかけていた倉庫が土台ごと引き剝がされ、荷馬車は車輪を軋ませながら宙へ浮かんだ。積み上げられていた兵糧や武具も木箱ごと巻き上げられ、燃え盛る屋根は炎をまとったまま空へ引きずり上げられていく。


村を囲んでいた木柵も根元から砕け、巨大な丸太となって男の頭上へ集まった。


それでも足りない。


超越者は歯を食いしばり、残る魔力をさらに絞り出した。


額には太い血管が浮かび、鼻先から一筋の血がこぼれる。だが念動力は止まらない。岩も、建物も、見張り台も、動かせるものはすべて空へ引き上げていく。


その過程で、足元を凍らされていた兵士たちまで巻き込まれた。


「た、隊長!」


「やめてください!」


「俺たちまで巻き込まれます!」


宙へ引きずり上げられた兵士たちが悲鳴を上げる。


それでも振り返らなかった。


もはや味方も敵も関係ない。ここで彼女を仕留められなければ、自分に次はない。その確信だけが、男を突き動かしていた。


「死ねェェェェェッ!」


咆哮とともに、両腕が振り下ろされた。


空が落ちた。


無数の剣と槍が先陣を切り、その後ろから岩塊が濁流となって押し寄せる。荷馬車が建物ごと押し潰す勢いで迫り、燃え盛る梁が長い炎の尾を引きながら降下する。最後には、巨大な見張り台までもが山のような影を落とした。


互いに衝突し、砕けながらも勢いは衰えない。


それは一人を殺すための攻撃ではなかった。


村そのものを押し潰し、地図から消し去るための一撃だった。


兵士たちは息をすることも忘れ、その光景を見つめていた。


避けられるはずがない。


防げるはずもない。


轟音を響かせながら迫る凶器の濁流を前にしても、エレアだけは動かなかった。


逃げようともせず、剣を構え直すことさえない。ただ一歩だけ前へ出ると、透き通るような青い瞳で迫り来るすべてを静かに見据えた。


剣の切っ先が、鼻先へ届こうとする。


巨大な岩塊が視界を埋め尽くす。


荷車の車輪が唸りを上げ、燃え盛る梁の熱が頬へ届いた――その瞬間。


エレアは静かに息を吐いた。


その吐息は、あまりにも冷たかった。


耳を引き裂いていた轟音が、不意に途絶える。


剣が空気を裂く音も、炎が爆ぜる音も、荷車が軋む音も消え失せ、世界そのものが静止したかのような静寂が村を包んだ。


兵士たちは反射的に空を見上げる。


最前列を飛んでいた一本の剣が、エレアの鼻先までわずかという位置で止まっていた。


違う。


止まったのではない。


凍っていた。


剣先に生まれた白い霜が瞬く間に刀身を駆け抜け、銀色の刃を透き通る氷へ変えていく。その冷気は隣を飛ぶ槍へ移り、さらに岩塊、荷馬車、木柵、燃え盛る梁、見張り台へと伝播していった。


炎は揺らめく姿のまま凍りついた。


砕けて飛び散っていた木片も、宙へ巻き上げられた土煙も、すべてが白い結晶へ変わって静止する。


あまりにも現実離れした光景を前に、誰も声を出せなかった。


「……な、んだ。」


超越者の喉から、掠れた声が漏れる。


念動力は消えていない。


魔力もまだ残っている。


それなのに、自分の支配下にあるはずの凶器は一つとして動かなかった。


男は歯を食いしばり、両腕へさらに力を込める。


筋肉が軋み、血管が浮き上がり、鼻から流れた血が唇を濡らした。


「動け……」


空気が震えるほどの魔力を注ぎ込む。


「動けぇぇぇぇッ!」


絶叫が村中へ響き渡った。


それでも剣は動かない。


岩塊も、荷馬車も、燃え盛る梁さえ、時間ごと凍りついたように静止したままだった。


「……そんな、馬鹿な。」


震える声が漏れる。


自分の能力が打ち破られたのではない。


能力という概念ごと、より強大な力で塗り潰された。


その事実が、男の背筋を冷たく撫でた。


エレアは頭上を見上げる。


宙を埋め尽くす無数の氷像が朝日を受け、淡い青白い光を村へ降り注いでいた。


「十分ですね。」


その一言とともに、エレアはゆっくりと瞼を閉じた。


そして、世界へ語り掛けるように静かに告げる。


「――《氷界陣》」


直後、兵士の一人が目を見開いた。


足元を覆っていた薄氷が、青白い光を放ち始めたのだ。


「な……」


隣の兵士も、そのまた隣も。


門を守る者も、消火へ走っていた者も、物資を運び出そうとしていた者も同じだった。


凍りついた足元から淡い光が立ち上り、蜘蛛の巣のように村中へ広がっていく。


石畳を駆ける無数の氷の筋。


家々の壁を這い上がる白銀の紋様。


倉庫の柱、荷車の車輪、井戸、木柵、周囲の木々。


村に存在するあらゆるものが、一つの術式として同じ輝きを帯び始めた。


超越者は、ようやく本当の意味を理解した。


違う。


この女は、自分と戦っていたのではない。


最初から村全体を術式へ組み込み、《氷界陣》を完成させるために動いていたのだ。


自分が優勢だと思っていた時間も。


追い詰めていると信じていた攻防も。


すべては、この瞬間へ至るために与えられた猶予に過ぎなかった。


「まさか……」


男は震える声で呟く。


「最初から……」


勝負など、始まってすらいなかった。


静かに立つエレアの姿は、戦場へ立つ騎士というより、完成した作品を前にした術者そのものだった。


そして、その魔力。


この冷気。


村一つを完全に支配するほどの圧倒的な力。


忘れるはずがない。


敵国ですら畏怖を込めて語った存在。


「貴様……」


喉が震える。


「アルディア王国、第三騎士団……副団――」


言葉は最後まで続かなかった。


村中を覆っていた青白い光が、一つへ繋がる。


地面が低く鳴り、空気が軋む。


次の瞬間、世界が白に染まった。


悲鳴は上がらない。


叫ぶ時間すら与えられなかった。


兵士たちは立った姿のまま。


超越者は驚愕の表情を浮かべたまま。


揺らめいていた炎さえ、その形を保ったまま純白の氷へ変わっていく。


家々は窓を開けたまま、倉庫は崩れかけたまま、荷車は宙へ浮かんだまま凍りついた。


村そのものが、一瞬で巨大な氷像へ姿を変えた。


風さえ止まったかのような静寂の中、エレアだけがゆっくりと目を開く。


「終わりました。」


穏やかな声が響いた直後。


――ピシッ。


超越者の胸元へ、一本の亀裂が走った。


それは肩から腕へ広がり、隣の兵士へ伝わる。石畳を駆け抜け、倉庫の壁を裂き、家々の屋根を渡り、村全体を覆う巨大な氷像へ瞬く間に広がっていった。


誰も動かない。


誰も声を上げない。


無数の亀裂だけが、静かに増えていく。


やがて。


――パリン。


澄み切った音が響いた。


次の瞬間、すべてが崩れた。


兵士が砕ける。


超越者が砕ける。


家屋が、倉庫が、木柵が、見張り台が、石畳が砕けていく。


周囲に立つ木々までもが朝日を受けて輝く氷晶となり、村全体が白銀の吹雪へ変わった。


数百人の兵士がいた痕跡も。


補給拠点だった証も。


そこに村が存在していたという事実さえも。


無数の氷晶へ溶けるように消えていく。


だが、地面へ落ちた結晶は残らなかった。


淡い光を帯びたまま輪郭を失い、魔力の粒子となって朝の空気へ消えていく。やがて風が吹き抜けた時、そこに残されていたのは、焼け焦げた土と砕けた地面だけだった。


巨大な氷魔法を使った痕跡さえ、残ってはいない。


エレアは静かになった一帯を見渡し、小さく息を吐いた。


「これなら、私が来たとは分からないでしょう。」


満足そうに頷きかけ、少しだけ困ったように微笑む。


「……少々、消し過ぎた気もしますが。」

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