裏ノルガルト大戦3
翌朝。
朝靄の残る森を抜ける風が、エレアの銀髪を静かに揺らした。
木陰から見下ろす先では、村の門が開き、夜明けを待っていたかのように荷馬車が次々と中へ入っていく。兵糧を積んだ荷車、武具を満載した荷車、布で覆われた木箱を運ぶ荷車――どれも昨日まで監視してきた光景そのものだった。
「予定どおりですね。」
それだけ確認すると、エレアは静かに目を閉じる。
任務は偵察ではない。
補給拠点を破壊し、この補給網を寸断すること。
次の瞬間、その姿は朝靄へ溶け込むように消えた。
轟音が村の朝を切り裂く。
最初に爆ぜたのは門近くの兵糧庫だった。
建物の内側から膨れ上がった炎が屋根を吹き飛ばし、積み上げられていた樽や木箱が爆風に乗って宙を舞う。燃え移った炎は隣の倉庫へ広がり、瞬く間に黒煙が空を覆った。
「敵襲だ!」
「兵糧庫を守れ!」
「侵入者を探せ!」
怒号が飛び交う中、エレアはすでに別の路地へ入り込んでいた。
飛び込んできた兵士の剣を紙一重でかわし、柄頭を鳩尾へ叩き込む。崩れ落ちる兵士を振り返ることなく駆け抜け、その直後、村の反対側で三本目の火柱が立ち上った。
混乱は一気に広がる。
消火へ向かう者。
侵入者を追う者。
物資を運び出そうとする者。
命令は飛び交うが、誰も全体を把握できない。
エレアは敵兵を必要以上に倒さない。
追わせ、走らせ、村中を混乱へ巻き込みながら、兵糧庫、武器庫、補給物資だけを正確に焼き払っていく。
「……なるほど。」
低い声が響いた。
「ただ暴れるだけの刺客ではないか。」
村の中央。
腕を組んで成り行きを見ていた男が、一歩前へ踏み出す。
その瞬間だった。
地面へ転がっていた剣が、ひとりでに宙へ浮かぶ。
一本。
二本。
十本。
やがて槍、斧、盾、岩塊、荷車、木柵までもが浮かび上がり、男の周囲へ集結していく。
まるで村中のあらゆる物が、男へ従っているかのようだった。
「隊長だ!」
「超越者様だ!」
兵士たちの表情へ安堵が戻る。
空を埋め尽くす無数の凶器を前にしても、エレアは逃げない。
静かに男を見据え、その場へ立ち止まった。
「ほう。」
男が目を細める。
「逃げぬか。」
「逃げても意味がありませんから。」
短い返答だった。
その落ち着きに、男の笑みが消える。
「ならば終わりだ。」
指先を軽く振る。
その動きだけで、空を埋める剣、槍、岩塊、荷車が一斉にエレアへ襲い掛かった。
剣の雨。
岩の豪雨。
荷車が城門を破る破城槌のような勢いで迫る。
避けた先へ次の凶器。
さらにその先へ別の攻撃。
村全体が牙を剥き、一人だけを殺そうとしていた。
エレアは最小限の動きでかわし続ける。
壁を蹴り、身を沈め、跳び、受け流す。
それでも攻撃は途切れない。
頬を石片が裂き、肩を木片が掠め、避け切れなかった荷車の車輪が脇腹を弾き飛ばした。
受け身を取って立ち上がる頃には、袖は裂け、白い肌には幾筋もの傷が刻まれ、赤い血が静かに滴っていた。
その姿を見た兵士たちは歓声を上げる。
「追い詰めた!」
「もう終わりだ!」
「超越者様の勝ちだ!」
勝利を疑う者はいなかった。
しかし、その歓声とは対照的に、エレアは静かに血の滲む指先を見つめる。
長く前線を離れてから感じ続けていた、ほんのわずかな違和感。
剣も魔法も衰えてはいない。
それでも何かが噛み合わなかった。
その正体が、ようやく分かった。
「……そういうことでしたか。」
小さく呟き、静かに顔を上げる。
「ありがとうございます。」
微笑んだ。
その笑みに、超越者は理由の分からない悪寒を覚える。
「ようやく――戦場の勘が戻りました。」
穏やかな声だった。
挑発でもなければ、勝利宣言でもない。
ただ事実を口にしただけ。
それが男の神経を逆撫でした。
「戯言を!」
男は右手を大きく振り下ろす。
空を埋め尽くしていた無数の凶器が再び濁流となってエレアへ殺到した。
「終わりだ!」
兵士たちが歓声を上げた、その瞬間だった。
最前列の兵士が不意に顔をしかめる。
「……何だ?」
靴底が動かない。
視線を落とす。
白い霜が、足元を覆っていた。
朝露ではない。
石畳の隙間から静かに這い出した氷が、靴底を包み込み、足首へ絡みついていく。
「おい!」
「動けない!」
「俺もだ!」
悲鳴は瞬く間に広がった。
門を守る兵士も。
消火へ向かった兵士も。
弓兵も。
物資を運び出そうとしていた者も。
誰一人として足を動かせない。
超越者は思わず背後を振り返る。
そして息を呑んだ。
白い霜は一本の道ではない。
村全体へ広がっていた。
石畳も、土も、建物の土台も。
数百人の兵士たちが立つ地面すべてが氷に覆われている。
その瞬間、男は理解した。
――違う。
押されていたのではない。
攻撃を受け流しながら、村全体へ魔力を巡らせる時間を稼いでいたのか。
全身から血の気が引く。
「……まずい。」




