決戦前夜
夕暮れが迫る頃、ノルガルト侯国中央部に広がる大平原へ、二つの軍勢がゆっくりと姿を現した。
どこまでも続く草原。
左右には深い森が壁のように連なり、その中央だけが大きく口を開けている。古くから街道が通るこの地は、幾度となく軍勢が行き交った場所だった。しかし、これほどの兵が一度に集うのは、建国以来でも数えるほどしかない。
南から現れたのは、ゼルヴァード国王率いる王家派。
北から進むのは、宰相率いる反乱軍。
先頭の騎兵が足を止めると、それに続くように無数の兵が動きを止めた。
草原を吹き抜ける風だけが、静かに両軍の間を渡っていく。
やがて丘の向こうに無数の軍旗が姿を現した。
「あれが……。」
若い兵士が思わず息を呑む。
夕日に照らされた反乱軍の軍旗が、地平線を埋め尽くしていた。
その光景は、まるで黒い大波が押し寄せてくるようだった。
隣に立つ古参兵が小さく笑う。
「初陣か。」
「……はい。」
「安心しろ。」
古参兵は敵陣から目を離さないまま言った。
「向こうにも、お前さんと同じように震えとる若い兵がおる。」
若い兵士は敵陣を見つめ直した。
確かに、こちらから見えるということは、向こうからもこちらが見えている。
自分たちが敵を見ているように、敵もまたこちらを見ているのだ。
やがて号令が平原へ響き渡る。
「停止!」
「野営準備!」
張り詰めていた空気が、一斉に動き始めた。
荷馬車が整然と並び、兵士たちは慣れた手付きで天幕を張る。
炊事班は手早く火を起こし、兵站部隊は兵糧を配り、馬番たちは鎧を外しながら愛馬へ水を与えていく。
数万の兵が動いているにもかかわらず、怒号はほとんど聞こえない。
誰もが理解していた。
明日、この平原で生き残る者と倒れる者が決まる。
だからこそ、無駄口を叩く者はいなかった。
王家派本陣では、ゼルヴァード国王が地図を静かに見つめていた。
周囲にはバルドリックをはじめ、南部諸侯や各領の将軍たちが揃っている。
昼まで続いた軍議も終わり、今は最終確認だけが行われていた。
「兵の到着は。」
「予定通りです。」
「補給も問題ありません。」
「各隊の士気も高く、動揺は見られません。」
一つ一つの報告へ、ゼルヴァードは静かに頷く。
やがてバルドリックが口を開いた。
「陛下。」
「どうした、バルドリック。」
「少し外をご覧ください。」
二人は並んで天幕の外へ出た。
夕日は森の向こうへ沈みかけ、広大な平原を赤く染め上げている。
遠くでは、反乱軍も同じように野営を始めていた。
ゼルヴァードは苦笑する。
「近いな。」
「ええ。」
「歩けば数時間とかからぬ距離か。」
「その通りです。」
夜襲。
奇襲。
その考えが両軍にないはずがない。
だが、互いに歴戦の将が指揮を執っている。
動けば察知される。
だからこそ、今夜だけは静寂が支配していた。
「静かなものだ。」
ゼルヴァードが呟く。
バルドリックは敵陣を見据えたまま答えた。
「嵐の前ほど静かなものです。」
ゼルヴァードは静かに笑う。
しばらく二人は無言のまま敵陣を見つめていた。
どちらの陣営にも数万の兵がいる。
守るべき家族があり、帰るべき故郷がある。
それでも夜が明ければ、互いに剣を交える。
「皮肉なものだ。」
ゼルヴァードが小さく呟く。
「昨日まで同じ侯国の民だった者たちが、明日は命を奪い合う。」
「それが内乱です。」
バルドリックは静かに答えた。
「勝っても侯国は傷付きます。」
「ああ。」
ゼルヴァードはゆっくり頷く。
「だが、ここで終わらせねば、更に多くの民が苦しむ。」
大きく息を吐き、真っ直ぐ敵陣を見据えた。
「ならば迷わぬ。」
「明日、この戦を終わらせる。」
バルドリックは深く頭を下げた。
「御意。」
◇ ◇ ◇
その頃、平原の反対側では反乱軍本陣にも無数の篝火が灯り始めていた。
闇の中へ一直線に並ぶ炎は、まるで大地にもう一つの星空が生まれたようだった。
宰相は天幕の外へ出ると、遥か彼方に揺れる王家派の灯を静かに見つめる。
「明日ですな。」
将軍の一人が隣へ並ぶ。
「ああ。」
宰相は短く頷いた。
「長かった。」
数年。
いや、それ以上。
この日のためだけに準備を積み重ねてきた。
その背後では、反乱軍へ加わった三人の超越者が、それぞれ無言で武具の手入れを続けていた。
一人は静かに剣を研ぎ澄まし。
一人は目を閉じて魔力を整え。
もう一人は焚き火の炎を見つめたまま、一言も口を開かない。
昼間のような余裕や笑みは、すでに誰の表情にもなかった。
彼らもまた、この一戦が自らの運命を左右することを理解していたのである。
平原を渡る夜風が、両軍の篝火を静かに揺らす。
同じ夜。
同じ空。
同じ月。
しかし夜が明ければ、その静寂は数万の兵が響かせる雄叫びへ変わる。
建国以来最大の内乱は、ついに最後の夜を迎えようとしていた。




