表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
英雄なのか?  作者: よろず
ノルガルト侯国内戦
PR
157/228

ノルガルト戦線12


ベルクハイムを出て、半刻ほどが過ぎた。


夕陽は山並みの向こうへ沈み始め、南へ続く街道には荷馬車や旅人の長い影が重なっている。街を離れた者たちは皆、少しでも戦火から遠ざかろうと足を急がせていた。


レインも周囲から浮かない速度を保ち、前を行く荷馬車との間隔を空けすぎないよう馬を進めている。


その時、不意に前方の列が止まった。


手綱を引かれた馬が小さく鼻を鳴らし、レインたちの幌馬車も静かに速度を落とす。


「何かあったのでしょうか」


荷台の奥から、第一王妃の声が聞こえた。


「少し様子を確認します」


レインは御者台から身を乗り出し、前方へ視線を送った。


街道の中央では、五人ほどの兵士が一台の荷馬車を取り囲んでいる。声を荒らげる兵士と、何度も頭を下げる商人。その様子を見るだけで、正規の検問ではないことは明らかだった。


「お願いします。それだけは勘弁してください」


四十代ほどの商人が、兵士へ縋るように訴えていた。


その背後では、妻が幼い娘を抱き寄せ、不安そうに夫の背中を見つめている。


兵士の一人は懇願など聞く耳を持たず、荷台から麻袋を乱暴に引きずり下ろした。口を開いて中身を確かめると、乾燥させた穀物を一掴みし、鼻で笑う。


「戦時中だ。国のために少し協力してもらう」


「それは売り物ではありません!」


商人は慌てて兵士へ駆け寄った。


「家族が食べるための物です。これを持っていかれたら、私たちは――」


言葉は最後まで続かなかった。


兵士が胸を突き飛ばし、商人は受け身も取れずに街道へ倒れ込む。乾いた音が響き、幼い娘が堪え切れずに泣き出した。


「お父さん!」


母親は娘を抱いたまま夫へ駆け寄る。


それでも兵士たちは笑っていた。


「命があるだけありがたいと思え」


「文句があるなら北へ戻るか?」


「もっとも、反乱軍に捕まる方が先だろうがな」


下卑た笑い声が、夕暮れの街道へ響く。


レインは何も言わず、その光景を見つめていた。


荷台の中も静まり返っている。


幌の隙間から外を見ていた国王は、膝の上で拳を固く握り締めていた。指先が白くなるほど力を込めながらも、声を上げることはない。


その瞳に宿るのは、怒りよりも深い苦悩だった。


「……ここまで荒れてしまったか」


誰へ向けたものでもない、低い呟きだった。


第一王妃が目を伏せる。


「侯都だけではなかったのですね」


第二王妃も胸元で手を組み、悲しげに街道の先を見つめていた。


「戦が始まれば、人の心まで変わってしまうのでしょうか……」


その言葉を聞き、王子が唇を強く噛み締める。


目の前で民が苦しめられている。


王族として育ってきた彼にとって、見過ごすことは何より苦しかった。


「父上」


立ち上がろうとした王子を、国王が静かに制する。


「今は耐えよ」


短い一言だった。


しかし、それを口にした国王自身が誰よりも苦しんでいることは、家族全員に伝わっていた。


今ここで正体を明かせば、商人一人を救う代わりに、王家全員を危険へさらすことになる。


動けないのではない。


動いてはならないのだ。


その時、荷台の隅から外を眺めていたピリカが、小さく肩を竦めた。


「お婆ちゃんの言った通りだね」


レインにだけ届くほどの声だった。


「レイン」


「はい」


「ちょっとだけ待ってて」


それだけ告げると、ピリカは幌を持ち上げ、馬車の陰へ静かに降りた。


泣き続ける子ども。


怒鳴り散らす兵士。


荷物を守ろうとする商人。


周囲の意識はすべて騒ぎへ向けられており、少女一人の動きを気に留める者はいなかった。


だからこそ、最初は誰も気付かなかった。


兵士の一人が、突然言葉を止めたことに。


「……あ?」


男は額へ手を当て、酔ったように身体をふらつかせる。


仲間が異変に気付き、声を掛けようとした瞬間、その兵士は糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。


「お、おい!」


駆け寄ろうとした二人目も、一歩踏み出したところで足をもつれさせ、そのまま前のめりに倒れる。


三人目が剣へ手を伸ばした。


しかし、鞘から半ばまで抜いたところで力が抜け、鈍い音を立てて街道へ転がった。


残る二人も間もなく意識を失い、街道には五人の兵士が折り重なるように倒れた。


何が起きたのか。


誰にも分からなかった。


旅人たちは息を呑み、離れた場所にいた兵士たちも、突然倒れた仲間を見て動きを止めている。


その静寂を破ったのは、荷を奪われかけていた商人だった。


「い、今だ! 行け!」


その叫びを合図に、止まっていた荷馬車が一斉に動き始める。


人々は家族の手を引き、倒れた兵士たちの脇をすり抜け、我先にと南へ進んでいった。


商人も妻に支えられながら御者台へ戻り、奪われかけた麻袋を荷台へ投げ込むと、急いで馬を走らせる。


混乱の中、ピリカが何事もなかったようにレインの馬車へ戻ってきた。


「お待たせ」


軽やかに御者台へ上がり、そのままレインの隣へ腰を下ろす。


レインも騒ぎへ余計な視線を向けることなく、静かに手綱を鳴らした。


馬車は前の列へ続き、街道を南へ進み始める。


しばらくしてから一度だけ後方を確かめたが、追ってくる者はいなかった。あの混乱では、誰が何をしたのか特定することもできないだろう。


「ふぅ……」


荷台の中から、小さく息を吐く音が聞こえた。


第一王妃だった。


「助かりました」


その声には安堵とともに、割り切れない感情が滲んでいた。


国王は遠ざかっていく兵士たちへ視線を向けたまま、静かに口を開く。


「謝らねばなるまい」


レインは僅かに首を傾けた。


「民を守るべき兵が、民から食料を奪っていた。それを止めることさえできぬとは……王として、情けない限りだ」


夕暮れの赤い光が幌の隙間から差し込み、その横顔へ長い影を落としている。


侯都を奪われたことだけではない。


自国の兵が混乱へ乗じ、守るべき民を苦しめている。


その現実が、国王の肩へ重くのしかかっていた。


戦乱は城や畑を焼くだけではない。


秩序を壊し、人の良心までも少しずつ削っていく。


「父上」


幼き王子が静かに声を掛けた。


「必ず取り戻しましょう」


その声に迷いはない。


「先ほどの方々が安心して旅をできる国を」


国王は息子の顔を見つめ、やがて小さく微笑んだ。


「そうだな」


短い返事だった。


しかし、その瞳には先ほどまでより僅かな力が戻っていた。


御者台では、ピリカが足を揺らしながら夕焼けを眺めている。まるで先ほどの出来事など、すでに終わったことのような顔だった。


「見事でしたね」


レインが声を掛けると、ピリカはきょとんとした表情で振り返る。


「何が?」


「兵士たちです」


「ああ、あれね」


ようやく思い出したように笑う。


「眠ってもらっただけだよ」


「随分と深く眠っているようでしたが」


「多分何日かは起きないかも」


あっさりとした返事に、レインは思わず苦笑する。


「殺さなかったのですね」


「お婆ちゃんが言ってたから」


ピリカは夕焼け空へ視線を戻した。


「『馬鹿は痛い目を見ても簡単には治らない。でも、だからって無駄に殺す必要はない』って」


いかにもイゼルダらしい言葉だった。


必要以上に情を掛けることはない。


だが、意味のない殺生も好まない。


その線引きを、ピリカも自然に受け継いでいるらしい。


「イゼルダさんらしいですね」


「でしょ?」


「でも殺気飛ばされたら殺れって」


ピリカは楽しそうに笑った。


その後の旅は、大きな問題もなく進んだ。


人目を避けられる場所では街道を外れ、馬車が通れる林道や古い農道を使う。村や関所へ近づく時だけ街道へ戻り、他の旅人へ紛れるように進んだ。


宿へ泊まることは避け、夜は人気のない林や放棄された小屋で短い休息を取る。


途中、いくつかの検問にも遭遇した。


しかし、兵士たちは身分証と積荷を確認するだけで、必要以上に旅人へ絡もうとはしなかった。ベルクハイム近郊で兵士が相次いで倒れたという噂が、すでに伝わっていたのかもしれない。


レインも冒険者として淡々と応じ、余計な会話は一切しなかった。


そうして四日目の夜。


馬車が最後の丘を越えた瞬間、闇の向こうに無数の篝火が浮かび上がった。


「見えてきました……」


第一王妃が、思わず声を漏らす。


夜空を背に、高くそびえる城壁。


その上では篝火が絶え間なく燃え、見張り塔には南部軍の兵士たちが立っている。


アルゼンハルト辺境伯領。


南部最大の城塞都市は、戦時の闇の中でも明かりを絶やすことなく、一行の帰還を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ