ノルガルト戦線12
ベルクハイムを出て、半刻ほどが過ぎた。
夕陽は山並みの向こうへ沈み始め、南へ続く街道には荷馬車や旅人の長い影が重なっている。街を離れた者たちは皆、少しでも戦火から遠ざかろうと足を急がせていた。
レインも周囲から浮かない速度を保ち、前を行く荷馬車との間隔を空けすぎないよう馬を進めている。
その時、不意に前方の列が止まった。
手綱を引かれた馬が小さく鼻を鳴らし、レインたちの幌馬車も静かに速度を落とす。
「何かあったのでしょうか」
荷台の奥から、第一王妃の声が聞こえた。
「少し様子を確認します」
レインは御者台から身を乗り出し、前方へ視線を送った。
街道の中央では、五人ほどの兵士が一台の荷馬車を取り囲んでいる。声を荒らげる兵士と、何度も頭を下げる商人。その様子を見るだけで、正規の検問ではないことは明らかだった。
「お願いします。それだけは勘弁してください」
四十代ほどの商人が、兵士へ縋るように訴えていた。
その背後では、妻が幼い娘を抱き寄せ、不安そうに夫の背中を見つめている。
兵士の一人は懇願など聞く耳を持たず、荷台から麻袋を乱暴に引きずり下ろした。口を開いて中身を確かめると、乾燥させた穀物を一掴みし、鼻で笑う。
「戦時中だ。国のために少し協力してもらう」
「それは売り物ではありません!」
商人は慌てて兵士へ駆け寄った。
「家族が食べるための物です。これを持っていかれたら、私たちは――」
言葉は最後まで続かなかった。
兵士が胸を突き飛ばし、商人は受け身も取れずに街道へ倒れ込む。乾いた音が響き、幼い娘が堪え切れずに泣き出した。
「お父さん!」
母親は娘を抱いたまま夫へ駆け寄る。
それでも兵士たちは笑っていた。
「命があるだけありがたいと思え」
「文句があるなら北へ戻るか?」
「もっとも、反乱軍に捕まる方が先だろうがな」
下卑た笑い声が、夕暮れの街道へ響く。
レインは何も言わず、その光景を見つめていた。
荷台の中も静まり返っている。
幌の隙間から外を見ていた国王は、膝の上で拳を固く握り締めていた。指先が白くなるほど力を込めながらも、声を上げることはない。
その瞳に宿るのは、怒りよりも深い苦悩だった。
「……ここまで荒れてしまったか」
誰へ向けたものでもない、低い呟きだった。
第一王妃が目を伏せる。
「侯都だけではなかったのですね」
第二王妃も胸元で手を組み、悲しげに街道の先を見つめていた。
「戦が始まれば、人の心まで変わってしまうのでしょうか……」
その言葉を聞き、王子が唇を強く噛み締める。
目の前で民が苦しめられている。
王族として育ってきた彼にとって、見過ごすことは何より苦しかった。
「父上」
立ち上がろうとした王子を、国王が静かに制する。
「今は耐えよ」
短い一言だった。
しかし、それを口にした国王自身が誰よりも苦しんでいることは、家族全員に伝わっていた。
今ここで正体を明かせば、商人一人を救う代わりに、王家全員を危険へさらすことになる。
動けないのではない。
動いてはならないのだ。
その時、荷台の隅から外を眺めていたピリカが、小さく肩を竦めた。
「お婆ちゃんの言った通りだね」
レインにだけ届くほどの声だった。
「レイン」
「はい」
「ちょっとだけ待ってて」
それだけ告げると、ピリカは幌を持ち上げ、馬車の陰へ静かに降りた。
泣き続ける子ども。
怒鳴り散らす兵士。
荷物を守ろうとする商人。
周囲の意識はすべて騒ぎへ向けられており、少女一人の動きを気に留める者はいなかった。
だからこそ、最初は誰も気付かなかった。
兵士の一人が、突然言葉を止めたことに。
「……あ?」
男は額へ手を当て、酔ったように身体をふらつかせる。
仲間が異変に気付き、声を掛けようとした瞬間、その兵士は糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
「お、おい!」
駆け寄ろうとした二人目も、一歩踏み出したところで足をもつれさせ、そのまま前のめりに倒れる。
三人目が剣へ手を伸ばした。
しかし、鞘から半ばまで抜いたところで力が抜け、鈍い音を立てて街道へ転がった。
残る二人も間もなく意識を失い、街道には五人の兵士が折り重なるように倒れた。
何が起きたのか。
誰にも分からなかった。
旅人たちは息を呑み、離れた場所にいた兵士たちも、突然倒れた仲間を見て動きを止めている。
その静寂を破ったのは、荷を奪われかけていた商人だった。
「い、今だ! 行け!」
その叫びを合図に、止まっていた荷馬車が一斉に動き始める。
人々は家族の手を引き、倒れた兵士たちの脇をすり抜け、我先にと南へ進んでいった。
商人も妻に支えられながら御者台へ戻り、奪われかけた麻袋を荷台へ投げ込むと、急いで馬を走らせる。
混乱の中、ピリカが何事もなかったようにレインの馬車へ戻ってきた。
「お待たせ」
軽やかに御者台へ上がり、そのままレインの隣へ腰を下ろす。
レインも騒ぎへ余計な視線を向けることなく、静かに手綱を鳴らした。
馬車は前の列へ続き、街道を南へ進み始める。
しばらくしてから一度だけ後方を確かめたが、追ってくる者はいなかった。あの混乱では、誰が何をしたのか特定することもできないだろう。
「ふぅ……」
荷台の中から、小さく息を吐く音が聞こえた。
第一王妃だった。
「助かりました」
その声には安堵とともに、割り切れない感情が滲んでいた。
国王は遠ざかっていく兵士たちへ視線を向けたまま、静かに口を開く。
「謝らねばなるまい」
レインは僅かに首を傾けた。
「民を守るべき兵が、民から食料を奪っていた。それを止めることさえできぬとは……王として、情けない限りだ」
夕暮れの赤い光が幌の隙間から差し込み、その横顔へ長い影を落としている。
侯都を奪われたことだけではない。
自国の兵が混乱へ乗じ、守るべき民を苦しめている。
その現実が、国王の肩へ重くのしかかっていた。
戦乱は城や畑を焼くだけではない。
秩序を壊し、人の良心までも少しずつ削っていく。
「父上」
幼き王子が静かに声を掛けた。
「必ず取り戻しましょう」
その声に迷いはない。
「先ほどの方々が安心して旅をできる国を」
国王は息子の顔を見つめ、やがて小さく微笑んだ。
「そうだな」
短い返事だった。
しかし、その瞳には先ほどまでより僅かな力が戻っていた。
御者台では、ピリカが足を揺らしながら夕焼けを眺めている。まるで先ほどの出来事など、すでに終わったことのような顔だった。
「見事でしたね」
レインが声を掛けると、ピリカはきょとんとした表情で振り返る。
「何が?」
「兵士たちです」
「ああ、あれね」
ようやく思い出したように笑う。
「眠ってもらっただけだよ」
「随分と深く眠っているようでしたが」
「多分何日かは起きないかも」
あっさりとした返事に、レインは思わず苦笑する。
「殺さなかったのですね」
「お婆ちゃんが言ってたから」
ピリカは夕焼け空へ視線を戻した。
「『馬鹿は痛い目を見ても簡単には治らない。でも、だからって無駄に殺す必要はない』って」
いかにもイゼルダらしい言葉だった。
必要以上に情を掛けることはない。
だが、意味のない殺生も好まない。
その線引きを、ピリカも自然に受け継いでいるらしい。
「イゼルダさんらしいですね」
「でしょ?」
「でも殺気飛ばされたら殺れって」
ピリカは楽しそうに笑った。
その後の旅は、大きな問題もなく進んだ。
人目を避けられる場所では街道を外れ、馬車が通れる林道や古い農道を使う。村や関所へ近づく時だけ街道へ戻り、他の旅人へ紛れるように進んだ。
宿へ泊まることは避け、夜は人気のない林や放棄された小屋で短い休息を取る。
途中、いくつかの検問にも遭遇した。
しかし、兵士たちは身分証と積荷を確認するだけで、必要以上に旅人へ絡もうとはしなかった。ベルクハイム近郊で兵士が相次いで倒れたという噂が、すでに伝わっていたのかもしれない。
レインも冒険者として淡々と応じ、余計な会話は一切しなかった。
そうして四日目の夜。
馬車が最後の丘を越えた瞬間、闇の向こうに無数の篝火が浮かび上がった。
「見えてきました……」
第一王妃が、思わず声を漏らす。
夜空を背に、高くそびえる城壁。
その上では篝火が絶え間なく燃え、見張り塔には南部軍の兵士たちが立っている。
アルゼンハルト辺境伯領。
南部最大の城塞都市は、戦時の闇の中でも明かりを絶やすことなく、一行の帰還を待っていた。




