ノルガルト戦線11
イゼルダの部屋を出ると、ピリカは慣れた足取りで地下通路を歩き始めた。
石壁へ等間隔に埋め込まれた魔導灯が淡く足元を照らし、静まり返った通路には二人の足音だけが規則正しく響く。
「こっちだよ。」
迷うことなく角を曲がり、しばらく進んだ先で一枚の木扉の前へ立ち止まる。
軽く三度、扉を叩いた。
「ピリカだよ」
すぐに内側から鍵が外れる音が響き、扉がゆっくりと開いた。
室内は驚くほど質素だった。
最低限の寝具と机、椅子が置かれているだけだが、人目を避けて身を潜めるには十分な広さがある。
そこには町人風の服へ着替えた国王一家が静かに待っていた。
豪華な衣装も王族を示す装飾もない。街へ出れば、裕福な商家の一家にしか見えないだろう。
国王が一歩前へ出る。
「あなたが、イゼルダ殿の話していたレイン殿ですな。」
「はい。」
レインは静かに一礼した。
「アルゼンハルト辺境伯領まで護衛いたします。出発の準備は整っております。」
「よろしく頼みます。」
国王は短く頷いた。
その眼差しに迷いはない。
イゼルダが託した相手。
それだけで十分に信頼できると判断しているのだろう。
「参りましょう。」
国王の一言で、王妃たちと子どもたちも必要最低限の荷物だけを手に取り、静かに部屋を後にした。
再び地下通路を進み、そのまま奥へ歩いていく。
やがて大きな木戸の前でピリカが閂を外すと、夕暮れの風が地下へ流れ込んだ。
出口の先は街外れに建つ古い倉庫だった。
人気はない。
倉庫の中央には、一台の幌馬車だけが静かに止められている。
どこにでもある商人の荷馬車。
だからこそ、人目を引かない。
「お婆ちゃんが昨日のうちに用意しておいたんだ。」
ピリカが幌を軽く叩く。
レインは車輪や馬具、馬の様子まで一通り確認する。
異常はない。
荷台には木箱や麻袋が積まれ、その奥には人が身を隠せる空間まで確保されていた。
さすがイゼルダだった。
「皆さん、荷台へお願いします。」
国王一家が順番に乗り込み、最後にピリカも軽やかに飛び乗る。
レインが視線を向けると、ピリカは笑って肩を竦めた。
「私は家族の娘ってこと。」
「御者台に二人いるより自然でしょ?」
「確かに。」
レインも小さく頷いた。
幌が閉じられると、中の様子は外から見えなくなる。
レインは御者台へ腰を下ろし、静かに手綱を握った。
馬車はゆっくりと倉庫を離れ、夕暮れのベルクハイムへ溶け込むように走り始める。
仕事を終えた商人や職人たちが家路を急ぎ、街を離れる荷馬車も少なくない。
その流れへ自然に紛れ込みながら、レインは周囲へ静かに視線を巡らせた。
尾行の気配はない。
だが、それでも警戒を解くことはしない。
やがて前方にベルクハイム南門が見えてくる。
門前には街を出る旅人や荷馬車が列を作り、一組ずつ門兵の検査を受けていた。
以前より警戒は明らかに厳しい。
戦時下であることを、門前の空気そのものが物語っている。
レインは前の荷馬車との間隔を保ちながら列へ加わった。
順番が近づき、やがて門兵が声を張る。
「次の馬車、前へ。」
レインは手綱を軽く引き、馬車を進めた。
門兵は御者台のレインを一瞥すると、ゆっくりと幌馬車の周囲を歩き始める。
「どこへ向かう。」
「南です。」
「行商か。」
「護衛依頼です。」
門兵は眉をひそめた。
「護衛なら、御者はどうした。」
「戦の影響で見つかりませんでした。依頼主も長く街へ留まれず、私が兼ねています。」
門兵は苦笑した。
「最近はそんな話ばかりだ。」
後ろにいた兵士も肩を竦める。
「御者も荷運びも人手不足ですから。」
「中を確認する。」
「どうぞ。」
幌を少し持ち上げた門兵は、中を一瞥する。
荷物の奥では町人風の服を着た家族が身を寄せ合い、疲れた表情で静かに座っていた。
戦乱を逃れ、南へ向かう一家。
そう見えても不思議ではない。
門兵は幌を閉じる。
「身分証。」
レインは冒険者ギルドの身分証を差し出した。
「アルディア王国の冒険者か。」
「はい。」
「こんな時によく依頼を受けたな。」
「依頼人を送り届けるのが仕事です。」
門兵は小さく笑い、身分証を返す。
「街道も物騒だ。反乱軍だけじゃない。野盗も増えている。」
「気を付けます。」
「よし、通れ。」
重厚な城門がゆっくりと開く。
レインは静かに手綱を鳴らした。
馬車は夕暮れの光の中を進み、誰にも呼び止められることなくベルクハイムを後にする。
だが、レインは一度も振り返らなかった。
王家を狙う者が、この街にいないという保証はどこにもなかったからだ。




