ノルガルト侯国戦線10
アルゼンハルト城を発ってから二日。
レインは街道を避け、森と山道を一直線に駆け抜けていた。
馬を使えば整備された道を進むしかないが、一人ならば人目のない獣道も、険しい斜面も選べる。魔力で身体能力を強化し、必要最低限の休息だけを挟んだ結果、予定どおり二日でベルクハイムへ辿り着くことができた。
城壁が見え始めた頃には、空はすでに夕暮れへ傾いている。
ノルガルト侯国第二の都市、ベルクハイム。
堅牢な城壁も、遠くから見える尖塔も、以前訪れた時と変わらない。だが、街を包む空気だけは明らかに違っていた。
城門には普段の倍近い兵士が配置され、出入りする者の身分と荷物を細かく確認している。検問を待つ商人たちは落ち着かない様子で周囲を見回し、門を抜けた後も足早に荷馬車を進めていた。
市場は開いているものの、客を呼び込む威勢の良い声は少ない。酒場から漏れてくる笑い声もなく、人々は必要な用事だけを済ませると、暗くなる前に家へ戻ろうとしている。
侯都陥落の報は、この第二都市にも確かな影を落としていた。
表向きの生活は続いている。
それでも人々の表情には、戦火がいつここまで届くのかという不安が浮かんでいた。
レインは街の様子を確認しながら中央通りを抜け、以前訪れた裏通りへ入る。
古びた石畳の両側には、魔導具店や古書店、小さな工房が並んでいた。表通りに比べれば人通りは少なく、夕刻ということもあって、すでに店じまいを始めている者もいる。
その奥に、目立たぬよう建つ小さな魔導具店があった。
扉を開けると、頭上の鈴が軽やかな音を鳴らす。
「あっ!」
聞き覚えのある声とともに、カウンターの向こうから少女が勢いよく立ち上がった。
「レイン!」
満面の笑みを浮かべたピリカが、小走りで駆け寄ってくる。
「やっぱり来た!」
「やっぱり、ですか?」
レインが首を傾げると、ピリカは得意げに胸を張った。
「お婆ちゃんがね、『あの子は近いうちに必ず来る』って言ってたの。だから毎日、今日かな、明日かなって待ってたんだよ」
レインが訪れたことに驚いた様子はない。
むしろ、ようやく来たと言わんばかりだった。
「お婆ちゃんも奥にいるよ。こっち」
ピリカに案内され、細い廊下の先にある見覚えのある扉まで進む。
軽く二度叩くと、室内から落ち着いた声が返ってきた。
「入りな」
扉を開けたレインは、思わず苦笑した。
窓際の椅子へ腰掛けたイゼルダは、以前と変わらず煙草を燻らせていた。細く立ち昇る紫煙を眺めるその姿には、焦りも驚きもない。
まるで約束の時間に客が来ただけのような顔だった。
「ああ、来たね」
イゼルダは煙草を指先で軽く揺らし、向かいの椅子を顎で示す。
「ライゼンでは、随分と忙しく立ち回ったそうじゃないか」
レインは椅子へ腰を下ろしながら、わずかに目を細めた。
「まだ何も話していませんが」
「話す必要があるかい」
イゼルダは肩を竦める。
「客が口を開くまで何が起きたのか分からないようじゃ、情報を扱う仕事なんてできないよ」
相変わらずだった。
各地が混乱へ沈み始めた今も、イゼルダの情報網は何一つ衰えていないらしい。
「そうそう。この前、あの馬鹿のところへ寄ってきたよ」
「あの馬鹿……師匠ですか」
「他に誰がいるんだい」
イゼルダは声を立てて笑った。
「相変わらず酒ばかり飲んでいたよ。龍のお嬢ちゃんも一緒でね。久しぶりに三人で飲みながら、昔話をたっぷりしてきた」
懐かしそうに目を細める。
「何十年経っても、変わらない連中だよ。本当に困ったもんさ」
レインも自然と口元を緩めた。
ヴェルガストなら、その光景は容易に想像できる。
ひとしきり笑った後、イゼルダは煙草を灰皿へ押し付けた。
「さて。昔話はこのくらいにしておこうか」
先ほどまでの柔らかな笑みが消え、瞳だけが鋭さを帯びる。
「お前さんが、わざわざここまで走って来た理由も大体分かっている」
レインも姿勢を正した。
「国王たちの行方。それと、この内乱を裏で動かしている連中について聞きに来たんだろう?」
「はい」
イゼルダは小さく頷き、湯飲みへ手を伸ばす。
「なら、まず安心しな」
茶を一口含み、何でもないことのように言い放った。
「国王と王妃たち、それに子どもたちなら、今はあたしが匿っているよ」
レインは珍しく返事を失った。
侯都でも、南部でも、国王一家の行方は掴めていない。バルドリックと南部諸侯が必死に探している当人たちを、イゼルダはまるで近所の知人を預かっているかのように語ったのである。
「国王陛下は、ご無事なのですね」
「ああ。国王も王妃たちも、子どもたちも怪我一つしちゃいない。疲れちゃいるが、食事も取れているし、眠れてもいる」
その答えに、レインは静かに息を吐いた。
「王都を脱出した後、ここへ来られたのですか」
「正確には、ここへ来るよう手を回しておいたのさ」
「以前から?」
「先王との約束でね」
イゼルダは窓の外へ視線を向けた。
「昔、ちょいとした貸し借りがあった。『いつか王家が本当に行き場を失った時は頼む』と言われていたんだよ」
口元に浮かんだ笑みには、懐かしさとわずかな苦みが混じっていた。
「まさか、本当にそんな日が来るとは思わなかったけどねぇ」
レインはそれ以上踏み込まなかった。
イゼルダが話さないことには理由がある。
以前ここを訪れた時から、それだけは理解していた。
しばらく静かな時間が流れた後、イゼルダは机を軽く指で叩いた。
「ピリカー!」
「はーい!」
返事とほぼ同時に扉が開き、ピリカが顔を覗かせる。
「呼んだ?」
「ああ。支度しな」
「支度?」
「今日から、しばらくレインと行動しな」
ピリカは一瞬きょとんとした後、大きく目を見開いた。
「えっ、本当に?」
「二度も言わせるんじゃないよ」
「やったぁ!」
両手を上げて喜ぶピリカに、レインはイゼルダへ視線を向けた。
「急な話ですね」
「急だからいいんだよ」
イゼルダは悪びれる様子もなく答える。
「この子も、いつまでも店番ばかりしているわけにはいかない。外へ出て、自分の目で見て、自分の頭で考える時期さ」
「私でよいのですか」
「あんただから預けるんだよ」
迷いのない返事だった。
「腕もある。頭も回る。余計なことも喋らない。少なくとも、この国のどこかへ一人で放り出すよりは、よほど安心できる」
そこでイゼルダは口元を吊り上げた。
「それに、お前さんと一緒なら面白そうだからねぇ」
「結局、それですか」
「十分な理由だろう?」
イゼルダは楽しそうに笑う。
ピリカもすぐにレインの隣へ並び、嬉しそうに見上げた。
「よろしくね、レイン!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「決まりだね」
満足そうに頷いたイゼルダは、再び表情を引き締めた。
「国王たちは、今夜ここを出す」
「アルゼンハルト城へ?」
「ああ。そろそろ、この街も安全とは言えなくなる」
窓の外では夕暮れの街が赤く染まり始めている。
「反乱軍も馬鹿じゃない。侯都から逃げた王家の行方を、いつまでも放ってはおかないよ。ベルクハイムへ手が伸びるのも時間の問題さ」
イゼルダは店内を見渡した。
棚に並ぶ魔導具。
積み上げられた古い書物。
長い年月を過ごしてきた店を眺めても、その表情に迷いはなかった。
「魔導具屋は、しばらく休業だね」
「イゼルダさんも城へ?」
「まさか。私は行く所があるんだよ」
「分かりました」
「戦火で国中が焼け野原になったら、商売どころじゃないからねぇ。店を守りたいなら、まず国を残さなきゃならない」
ピリカは少しだけ寂しそうに店内を見回したが、すぐに表情を切り替えた。
「じゃあ、すぐに準備してくる!」
「余計な物まで詰めるんじゃないよ!」
「分かってるー!」
元気な返事を残し、ピリカが廊下の奥へ駆けていく。
その足音が遠ざかると、イゼルダの笑みが静かに消えた。
「レイン」
声の調子が変わった。
イゼルダは手招きをし、レインを近くへ呼び寄せる。
「ここからが、お前さんが本当に聞きたかった話だ」
レインが椅子を寄せると、イゼルダは声を落とし、耳元へ何事かを囁いた。
その内容を聞き終えた瞬間、レインの表情からわずかに笑みが消える。
「……それは、確かな情報ですか」
「あたしが不確かな話で、お前さんをここまで呼びつけると思うかい?」
イゼルダの瞳には、先ほどまでの柔らかさは残っていなかった。




