ノルガルト侯国戦線9
しばらくの沈黙が、会議室を包んでいた。
諸侯たちの視線は、バルドリックの隣に立つルークへ集まっている。
国王自らが長年にわたって秘匿してきた上位超越者。バルドリックが実力を保証したとはいえ、誰もがその存在をすぐに受け入れられたわけではない。しかし、ここでルークの力を試す意味がないことも、歴戦の諸侯たちは理解していた。
今、優先すべきは反乱軍へ対抗するための準備である。
バルドリックは諸侯が現実を受け止めるのを待ってから、地図へ向き直った。
「話は以上じゃ。今日より南部全域を戦時体制へ移行する。諸君らは直ちに領地へ戻り、兵の招集を始めよ。街道、橋、砦の警備を強化し、避難民を受け入れる準備も進めるのじゃ」
指先で南部各地の要衝を示しながら、さらに言葉を続ける。
「敵がいつ南へ動くかは分からん。じゃが、こちらから焦って北へ兵を進める必要もない。今は王党派の戦力を一つでも多く集め、守りを固めることが先決じゃ。各地で抗戦を続ける将や領主と連絡が取れたなら、速やかに儂へ報告せよ」
諸侯たちは険しい表情で頷いた。
侯都を奪還したいという思いは、この場にいる誰もが同じだろう。しかし、感情に任せて軍を動かせば、三人の超越者と中央軍を抱える反乱軍に各個撃破されるだけである。
今必要なのは怒りではなく、耐えるための覚悟だった。
「そして、ルークの存在はこの場にいる者だけの秘密じゃ」
バルドリックの鋭い眼差しが、円卓を囲む諸侯を順に捉える。
「家族にも、家臣にも、腹心にも話すでない。敵に知られた瞬間、切り札としての価値は大きく失われる。王家と、この国の命運に関わる機密であることを忘れるな」
「承知いたしました」
最初に応じたのは、南部でも長く領地を治めてきた侯爵だった。
その声を皮切りに、力強い返答が重なる。
「御意」
「決して外へは漏らしません」
「我が家の名に懸けて、お約束いたします」
誰の表情にも迷いはなかった。
バルドリックは一度だけ頷く。
「では、頼んだぞ」
その一言を合図に、諸侯たちは一斉に立ち上がった。
無駄な挨拶を交わす者はいない。互いに短く一礼すると、足早に大会議室を後にしていく。廊下へ出た瞬間から、待機していた家臣たちへ次々と命令が飛んだ。
「領都へ早馬を出せ。騎士団と予備兵を招集する」
「街道警備を倍にしろ。南へ入る者だけではなく、北へ向かう者もすべて確認せよ」
「食料と薬を集めろ。ただし、民から無理に取り上げるな。商人には正規の代金を支払え」
張り詰めた声が城内へ響き渡る。
城門前では、各家の騎士や従者たちが慌ただしく馬を引き出していた。馬車の準備を待たず、自ら馬へ飛び乗る当主も少なくない。
「急げ!」
「一刻を争うぞ!」
号令とともに馬蹄が鳴り響き、南部各地へ向かう諸侯の一団が次々と城門を抜けていく。
その光景を城壁の上から見送りながら、シグリアは静かに息を吐いた。
「これで、後戻りはできませんね」
「できん」
隣に立つバルドリックは、短く答えた。
「今日この時から、南部は国を取り戻すために動き始めた。あとは、この火を消さずにどこまで広げられるかじゃ」
最後の一団が見えなくなるまで見届けると、バルドリックは踵を返した。
再び大会議室へ戻り、閉ざされた扉の前で足を止める。
「……もうよい。入ってまいれ」
その声に応じ、壁際に設けられた扉が静かに開いた。
隣室で軍議を聞いていたレインとエレアが姿を現す。
二人は室内へ入ると、バルドリック、シグリア、ハルヴェン、エイラ、リング隊長、ルークへ静かに一礼した。
先ほどまで諸侯で埋まっていた会議室には、別種の緊張が残されている。ここにいるのは、これからの戦いで王家を支え、裏から情勢を動かす者たちだけだった。
「聞いての通りじゃ」
バルドリックは円卓へ腰を下ろし、深く息を吐く。
「ここから先、南部の守りは諸侯に任せる。儂らは儂らで、次の手を進めねばならん」
シグリアは地図へ視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「反乱軍も、いずれ私たちがアルゼンハルト領にいると気付くでしょう」
「間違いあるまい」
バルドリックは即答した。
「これだけの諸侯が一度に城へ集まったのじゃ。全員が口を閉ざしても、人の動きまでは隠せん。反乱軍も無能ではない。遠からず、王家が南部へ逃れたことまで辿り着くじゃろう」
「そうなれば……」
エイラが不安そうに呟く。
「当然、命を狙ってくる」
バルドリックは事実だけを告げるように答えた。
「軍を差し向けるには時間が掛かる。じゃが、暗殺者なら少人数で動ける。王家の者を討てば、南部諸侯の心を折り、反乱軍こそが国を継ぐ正当な勢力だと喧伝することもできよう」
シグリアが生きている限り、王党派には旗印がある。
逆に、その命を奪われれば、集まり始めた南部諸侯は再び動揺する。反乱軍が狙わない理由はなかった。
エレアが静かに一歩前へ出た。
「でしたら、私が王女殿下方の護衛に就きます」
「理由を聞こう」
「城の兵士だけでは、すべての場所を守り切れません。シグリア殿下やエイラ殿下の生活空間には、男性の護衛が常に立ち入ることのできない場所もあります。そこまで含めて警護するのであれば、私が最も適任です」
シグリアは柔らかく微笑んだ。
「心強いです。よろしくお願いします、エレアさん」
「お任せください」
エレアは静かに一礼する。
バルドリックも異論を挟まず、今度はルークへ視線を向けた。
「ルーク。お前は城内外の警戒を担当せよ。儂も軍議や避難民への対応で、常に城館へ残れるとは限らん。その間、この城へ外敵を近づけぬことがお前の役目じゃ」
「承知しました」
「エレア殿と交代しながら、必ず休息も取れ。二人とも倒れては意味がない」
「承知しております」
エレアとルークが同時に応じる。
王女たちの身辺をエレアが守り、城内外から迫る脅威をルークが警戒する。二人が連携する限り、並の刺客が王家へ近づくことは不可能に近い。
護衛の役割が決まったところで、レインが静かに口を開いた。
「バルドリック閣下。一つ、気になることがあります」
全員の視線が集まる。
レインは円卓の地図へ近づき、侯都から各地方へ伸びる街道を指でなぞった。
「今回の内乱は、あまりにも動きが早すぎます。侯都の陥落とほぼ同時に各地の軍が動き、三人の超越者まで反乱軍へ加わりました」
「事前に示し合わせていたと見るべきじゃろうな」
バルドリックの言葉に、レインは頷いた。
「これほど大規模な反乱を起こすには、兵だけでなく、武器、食料、馬、通信手段、協力する貴族まで事前に揃える必要があります。長い時間をかけて準備を進め、各地の動きを一つにまとめた人物か組織がいるはずです」
それはこの場にいる者たちも抱いていた疑念だった。
しかし、断片的だった事実を並べたことで、反乱軍の背後に統一された意思があるという輪郭が、より鮮明に浮かび上がる。
「そして、その者は今もどこかから全体へ指示を出している可能性があります。敵が次に何を狙うのか分からないままでは、こちらは動きが起きてから対応するしかありません」
バルドリックは腕を組み、静かに続きを促した。
「それで、お主には何か考えがあるのか」
「ベルクハイムに、以前世話になった方がいます」
レインの言葉に、バルドリックの眉がわずかに動いた。
「……イゼルダ殿か」
「はい」
その名前を聞き、エレアも納得したように小さく頷く。
レインが以前ベルクハイムで経験した一連の出来事は、王立騎士学校にいた頃に聞いていた。イゼルダが単なる魔導具店の主人ではないことも知っている。
一方、シグリアたちには聞き覚えがなかったらしい。
「バルドリック閣下は、その方をご存じなのですか」
シグリアが尋ねると、バルドリックはわずかに苦い表情を浮かべた。
「表向きは、ベルクハイムで魔導具店を営んでおる。じゃが、あの方が持つ人脈と情報は、並の商人や情報屋とは比べものにならん」
「情報屋なのですか?」
ハルヴェンの問いに、バルドリックは少し考えてから答えた。
「そう呼ぶ者もおる。じゃが、金を積めば情報を売るような相手ではない。誰と会い、何を話すかは、すべてあの方自身が決める」
バルドリックはかつてを思い出すように目を細めた。
「儂も軍を預かっていた頃、一度だけ力を借りたことがある。欲しかった情報は得られたが、二度と同じ交渉をしたいとは思わなんだな」
「バルドリック閣下も、お会いになったことがあるのですね」
「ああ。もっとも、こちらが会いたいと願って会える相手ではないがの」
バルドリックはレインへ視線を戻した。
「お主には、会う当てがあるのか」
「あります」
レインは迷わず答えた。
どのような約束があるのかまでは語らない。だが、その返答だけで、単なる思いつきではないことは伝わった。
バルドリックは地図の中からベルクハイムの位置を確認する。
「すでに反乱軍の間者が入り込んでおっても不思議ではない。侯都から離れているとはいえ、以前よりはるかに危険な土地になっておるぞ」
「承知しています」
兵力で劣る王党派にとって、敵の目的と次の動きを知ることは、数千の兵を得ることにも等しい。危険を理由に避けてよい役目ではなかった。
バルドリックはしばらくレインを見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。ベルクハイムへ向かってくれ」
「はい」
「イゼルダ殿が何かを掴んでおるなら、その情報は今の我らにとって何万の兵にも勝る。じゃが、勘違いするでないぞ」
その眼差しが鋭さを増す。
「お主の役目は敵を討つことではない。情報を得て、生きてここへ戻ることじゃ。どれほど重要なものを掴んでも、持ち帰れねば意味はない」
レインは深く一礼した。
王家の護衛はエレアとルーク。
南部の防衛はバルドリックと諸侯たち。
そして、内乱の裏側を探るため、レインはベルクハイムへ向かう。
王党派が国を取り戻すための動きは、静かに次の段階へ進み始めていた。




