ノルガルト侯国戦線6
夜。
アルゼンハルト辺境伯の城は、ようやく一日の喧騒を終えようとしていた。
昼間は避難民への対応で慌ただしかった城内も、今は落ち着きを取り戻している。城壁では夜警の兵が持ち場を交代しながら周囲を警戒し、遠くから聞こえてくるのは風が石壁を撫でる音だけだった。
レインとエレアに用意された客室も、辺境の城らしく質素な造りである。
机と椅子、二つの寝台。それだけの部屋だったが、掃除は隅々まで行き届き、寝具も新しい。華美ではないものの、客を迎えるための心配りは十分に感じられた。
窓辺に立ったレインは、眼下へ広がる城下を見渡す。
夜も更け始めているというのに、街の灯はまだ消えていない。
広場では避難民たちが肩を寄せ合い、倉庫では兵士や領民が寝床の準備を続けていた。誰もが疲れ切っている。それでも動きを止める者はいない。
「あれだけの人数を受け入れ続けるのは、簡単なことではありませんね」
レインの言葉に、エレアも窓辺へ並ぶ。
「ええ。食料も住む場所も限りがあります。それでも受け入れを続けたのは、辺境伯が領民だけではなく、この地へ逃れてきた人々まで守ると決めたからでしょう。」
「だから兵を北へ送らなかった。」
「はい。南部の兵力を失えば、この地そのものが危険になります。反乱軍だけではありません。カルドニア王国が動けば、避難民も領民も逃げ場を失います。」
レインは静かに頷いた。
王女たちにとっては非情な判断だったかもしれない。
だが、領主が守るべきものは王家だけではない。
城下に灯る一つひとつの明かりこそ、バルドリックが最後まで守ろうとしているものだった。
「領主としては、正しい判断です。」
「私もそう思います。」
その時だった。
静かな部屋へ控えめなノックが響く。
二人は自然と顔を見合わせた。
この時間に客室を訪ねてくる相手など限られている。
「どうぞ。」
扉が開き、姿を現したのはバルドリックだった。
昼間と変わらぬ穏やかな表情。しかし、その眼差しには昼間には見せなかった鋭さが宿っている。
「夜分にすまんな。少し時間をもらえるか。」
「もちろんです。」
レインが椅子を勧めると、バルドリックは軽く会釈を返して部屋へ入った。
しかし、すぐには腰を下ろさない。
扉が閉まる音を聞き届け、窓へ目を向け、最後に部屋全体をゆっくりと見回す。
その仕草だけで、昼間には話せない内容なのだと伝わってきた。
「一つ頼みがある。」
「遮音の魔法を張ってもらえんか。」
「承知しました。」
エレアが短く詠唱すると、淡い光が部屋全体を包み込み、静かに消えていく。
「これで外へ漏れることはありません。」
「助かる。」
バルドリックはようやく椅子へ腰を下ろした。
組んだ両手へ一度視線を落とし、短く息を吐く。
そして、静かに顔を上げた。
「昼間は、あえて聞かなかった。」
その視線は真っ直ぐエレアへ向けられる。
「もし儂の思い違いなら笑ってくれて構わん。」
一拍置き、静かに問い掛けた。
「お主……アルディア王国元第三騎士団副団長、エレア・レインフォード殿ではないか。」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
レインは黙ったまま隣を見る。
エレアは老人から視線を逸らさず、小さく微笑んだ。
「見抜かれましたか。さすが元ノルガルト侯国元帥ですね。」
バルドリックは苦笑する。
「やはりそうか。一度だけ戦場で見かけたことがある。史上最年少で第三騎士団副団長となった人物を、一度見ただけで忘れるほど、儂も耄碌してはおらん。」
懐かしむようにそう語ると、今度はゆっくりとレインへ視線を移した。
「では、お主は何者じゃ。」
レインは穏やかに微笑む。
「どうして、そう思われたのですか。」
バルドリックも小さく笑った。
「長く人を見てきたからじゃ。」
「エレア殿ほどの人物が、正体を隠し、お主と共に行動しておる。」
「それだけで、お主が只者ではないことくらい分かる。」
老人は肩の力を抜きながら続ける。
「第三騎士団副団長まで務めた人物じゃ。誰彼構わず行動を共にするような人物ではあるまい。」
「まして、このような情勢の中で旅を続ける以上、互いに命を預け合う間柄じゃ。」
「それほどまでに信頼を寄せる相手となれば、気にならぬ方がおかしい。」
部屋は静まり返る。
バルドリックは小さく笑みを浮かべた。
「安心せい。正体を暴きたいわけではない。」
「聞けば互いに困る話があることくらい、この歳になれば分かる。」
そう言って壁に掛けられたノルガルト侯国の地図の前へ歩いていく。
老人の指先が南の国境線をゆっくりとなぞった。
「儂が知りたいのは、一つだけじゃ。」
静かな声が部屋へ響く。
「アルディア王国は、この内乱をどう見ておる。」
わずかに間を置き、ゆっくりと振り返る。
「そして、どう動く。」
レインはすぐには答えなかった。
隣のエレアへ一度だけ視線を向ける。
その意味を理解したエレアは、小さく頷いて一歩前へ出た。
「これから申し上げることは、あくまで私個人の見解です。アルディア王国の正式な方針ではありません。」
「構わん。」
バルドリックは迷いなく頷く。
「儂が聞きたいのは国の建前ではない。同じ戦場を知る者として、お主が何をどう見ておるかじゃ。」
エレアは静かに息を整え、壁に掛けられたノルガルト侯国の地図へ視線を向けた。
「現時点で、アルディア王国がこの内乱へ直接介入することはありません。」
部屋は静まり返る。
「今回の戦いは、あくまでもノルガルト侯国内の内乱です。カルドニア王国が反乱軍を支援している可能性は極めて高いでしょう。しかし、それを各国が納得できる形で証明できない以上、他国が軍を動かす理由にはなりません。」
エレアは淡々と言葉を続ける。
「もしアルディア王国が先に兵を進めれば、今度は我が国が内政へ干渉したことになります。」
「カルドニア王国は、それを口実として正規軍を投入するでしょう。」
「そうなれば、これはノルガルト侯国だけの内乱では終わりません。西方全域を巻き込む国家間戦争へ発展します。」
バルドリックは腕を組んだまま、小さく目を閉じた。
「……やはり、その結論になるか。」
苦く漏らした一言には、失望ではなく、幾度も同じ答えへ辿り着いた者だけが持つ重みがあった。
「儂も考えた。」
老人は静かに地図を見つめる。
「どうすれば他国が堂々と動けるのか。どうすれば、この国を救えるのかとな。」
「じゃが、どこから考えても行き着く先は同じじゃ。」
「他国には、大義名分がない。」
「はい。」
エレアも静かに頷く。
「逆に言えば、カルドニア王国が正規軍による介入を隠さなくなれば話は変わります。」
「その時はアルディア王国も、自国防衛という大義名分のもとで国境へ兵を進めるでしょう。」
「ですが、今はまだその段階ではありません。」
部屋へ再び沈黙が落ちる。
バルドリックはゆっくりと息を吐いた。
「他国は、この国を救わん。」
そう呟いたあと、小さく首を横へ振る。
「……いや、違うな。」
「救えん、か。」
「その通りです。」
今度はレインが静かに口を開いた。
老人の視線が向けられる。
レインは落ち着いた表情のまま続けた。
「ノルガルト侯国は、この国の人々自身の手で立ち上がらなければなりません。」
「理由を聞こう。」
「他国に救われて終わった戦では、本当の意味で国は残らないからです。」
レインは地図へ視線を移した。
「仮にアルディア王国が軍を率いて反乱軍もカルドニア王国も退けたとしましょう。」
「人々の記憶に残るのは、ノルガルト侯国が勝ったという事実ではありません。」
「アルディア王国に救われたという事実です。」
静かな声だった。
だが、その一言一言には不思議な説得力があった。
「そうなれば、この国は重要な決断を下すたびにアルディア王国を意識するようになります。」
「それでは属する相手が変わるだけです。」
バルドリックは何も言わない。
その沈黙を受け、レインは言葉を続けた。
「この戦いは、誰がノルガルト侯国の未来を決めるのかという戦いでもあります。」
「だからこそ、勝つにしても敗れるにしても、その結果はノルガルト侯国自身が背負わなければならない。」
「ゆえに、アルディア王国は表へ出ぬ、と。」
「はい。」
短く答えたあと、レインは穏やかに付け加えた。
「ですが、何もしないという意味ではありません。」
その一言に、バルドリックの眼光が鋭くなる。
レインは再びエレアへ視線を送った。
エレアは静かに姿勢を正し、バルドリックを真っ直ぐ見据える。
「辺境伯。」
「ここから先は、あなたを信頼してお話しします。」
「他言は無用に願います。」
「もちろんじゃ。」
迷いのない返答だった。
エレアは静かに頷く。
「お察しの通り、私たちはアルディア王国第七騎士団に所属しています。」
バルドリックは驚かなかった。
ただ静かに目を閉じると、小さく頷いた。
「……なるほど。」
その一言だけで十分だった。
エレアは続ける。
「我々が受けた命令は、シグリア王女殿下、ハルヴェン王子殿下、エイラ王女殿下、この三名の安全を確保することです。」
「直命か。」
「はい。」
「王家の血を守るため、ということじゃな。」
「それもあります。」
エレアは静かに首を横へ振った。
「ノルガルト侯国は、アルディア王国にとって重要な緩衝国です。」
「この国が完全にカルドニア王国の支配下へ入れば、西方全体の均衡が崩れます。それはアルディア王国としても望むところではありません。」
「だから第七騎士団が動いた。」
「はい。」
短いやり取りだった。
だが、その言葉だけで互いに十分だった。
バルドリックは腕を組み、しばらく黙って考え込む。
やがて小さく息を吐いた。
「そういうことか……。」
その呟きには、長年抱えていた疑問が一つ解けたような響きがあった。
「最初から気になっておった。」
老人は穏やかな目でレインとエレアを見比べる。
「王女殿下を守るだけなら、第七騎士団を動かす必要はない。儂には、アルディア王国が何を考えているのか見えんかった。じゃが今なら分かる、お主らは王家だけを見ておるのではない。ノルガルト侯国という国そのものを見て動いておる。」
エレアは静かに頷いた。
「王家を守ることと、この国を守ることは切り離せません。」
「どちらか一方だけでは意味がありませんから。」
バルドリックは満足そうに目を細めた。
「安心したわ。」
「アルディア王国にも、国を先まで見ておる者がおるということじゃな。」
そう言って視線は自然とレインへ移る。
「そして、お主じゃ。」
レインは静かに老人を見返した。
「先ほどの話を聞いて、確信した。」
「エレア殿ほどの人物が、お主と行動を共にしている理由がな。」
老人は苦笑する。
「最初は若い護衛か、あるいは弟子のようなものかとも思った。」
「じゃが違った。」
「エレア殿はお主を対等な存在として見ておる。」
「安心せい。」
「これ以上、お主のことを詮索する気はない。」
「軍人には聞かぬ方がよいこともある。」
「知らぬからこそ守れる秘密もあるからの。」
そう言うと、バルドリックはゆっくりと立ち上がった。
「今夜聞きたかったことは、それで十分じゃ。」
「アルディア王国がこの国を見捨てたわけではないこと。」
「そして、お主らがノルガルト侯国の未来まで考えて動いておることが分かった。」
老人は扉の前で足を止め、振り返る。
「礼を言おう。」
「久しく忘れておった。」
「国を背負う者とは、ただ強い者ではない。」
「勝った後の国まで考えられる者のことを言うのじゃな。」
レインは静かに一礼した。
「こちらこそ、お話しできて良かったです。」
バルドリックは穏やかに笑みを浮かべる。
「王女殿下たちは儂が責任を持って守ろう。」
「お主らは、お主らにしかできん役目を果たせ。」
静かに扉が閉まる。
張り詰めていた空気がほどけると同時に、エレアは遮音魔法を解いた。
再び夜風の音が部屋へ戻ってくる。
レインは窓辺へ歩み寄り、城下に灯る無数の明かりを静かに見つめた。
「思っていた以上の人物でしたね。」
その隣へ並んだエレアは、小さく微笑む。
「ええ。」
「だからこそ、最後まで南部を任され、多くの人に慕われているのでしょう。」
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
城下では避難民を照らす灯が、夜の静けさの中で揺れ続けていた。




