ノルガルト侯国戦線5
一行が案内されたのは、城館の応接室だった。
豪華さを競うような部屋ではない。磨き込まれた木の机と椅子が整然と並び、壁には南部一帯を描いた地図が掛けられている。長年この地を守り続けてきた城らしい、質実剛健な造りだった。
扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
ルークは室内を一通り確認し、静かに頷いた。
「ここなら問題ありません。」
全員が席へ着くのを待ち、アルゼンハルト辺境伯バルドリックがゆっくりと口を開いた。
「改めて名乗っておこう。儂はバルドリック・フォン・アルゼンハルト。この南部一帯を預かる辺境伯じゃ。」
穏やかな声だった。
威圧しているわけではない。それでも、長年戦場を渡り歩き、国境と領民を守り続けてきた武人の重みが、自然と部屋の空気を引き締める。
リング隊長が立ち上がり、深く一礼した。
「お会いできて光栄です、アルゼンハルト辺境伯。」
「うむ。」
短く応じたバルドリックへ、シグリアも静かに頭を下げる。
「お久しぶりです、辺境伯。このたびは突然の訪問にもかかわらず、お迎えいただきありがとうございます。」
「気にすることはない。皆、無事で何よりじゃ。」
バルドリックはハルヴェンとエイラへも穏やかな視線を向けた。二人も緊張を残しながら頭を下げ、続いてルーク、レイン、エレアも簡単に名乗る。
一通りの挨拶が終わると、バルドリックは机の上へ広げられた地図へ目を落とした。
「さて、世間話をしている時間はなさそうじゃな。」
誰も口を挟まない。
バルドリックは一同を順に見渡し、静かに問い掛けた。
「まず聞こう。これから、お前たちはどう動くつもりじゃ。」
迷いなく答えたのはシグリアだった。
「父のお言葉に従い、まずは南部へ参りました。ここで王党派と合流し、父上の行方を探したいと考えております。」
答えを聞いても、バルドリックはすぐには口を開かなかった。
地図へ視線を落とし、北部から侯都、そして南部へゆっくりと目を走らせる。やがて顔を上げると、先ほどと変わらぬ静かな口調で告げた。
「分かった。」
一拍置き、続ける。
「では、今度は儂の話じゃ。先に結論だけ言おう。」
全員の視線が集まった。
「儂は兵を動かさん。」
その言葉に、リング隊長が思わず身を乗り出す。
「辺境伯、それでは――」
「最後まで聞け。」
声を荒らげたわけではない。
それでも、リング隊長はすぐに口を閉ざした。
バルドリックは席を立ち、壁に掛けられた地図の前へ歩み寄る。
「今、この南部には毎日のように避難民が流れ着いておる。」
指先が南部一帯をなぞった。
「戦を逃れた者、家を失った者、家族とはぐれた者。事情は様々じゃが、皆この地で生き延びようと必死だ。」
窓の外へ視線を向ける。
城門の向こうでは、今も避難民の列が途切れることなく続いていた。
「儂が預かるのは、この城だけではない。この地で暮らす領民と、助けを求めて逃れてきた者たちすべてじゃ。」
バルドリックは地図の北側へ指を移す。
「兵を北へ出せば、南部の守りは薄くなる。その隙を反乱軍、あるいはカルドニア王国に突かれれば、この地にいる民を守れん。」
答えを求める問いではなかった。
兵を持たぬ人々が戦火へ巻き込まれれば、何が起こるか。この場にいる全員が理解している。
「儂は、その責任から逃げるわけにはいかん。」
静かな言葉だった。
だからこそ、誰にも軽く返すことはできなかった。
バルドリックが王家を見捨てようとしているのではない。辺境伯として、先に守らなければならないものがあるだけだった。
シグリアは一度息を整えると、静かに立ち上がって頭を下げた。
「……失礼いたしました。」
「辺境伯のお立場を考えれば、そのご判断は当然です。私たちのために、この南部の方々を危険へさらしていただきたいとは思っておりません。」
リング隊長も頭を垂れる。
「無理を申し上げました。」
バルドリックは二人を見つめ、わずかに頷いた。
「分かってもらえたなら、それでよい。」
そして席へ戻りかけたところで、足を止めた。
「……じゃが、勘違いはするな。」
シグリアとリング隊長が顔を上げる。
「儂は兵を動かさんと言っただけじゃ。協力せぬとは、一言も言っておらん。」
部屋の空気が変わった。
バルドリックは再び椅子へ腰を下ろし、両手を組む。
「王党派や南部諸侯への連絡は儂が引き受ける。兵糧と物資も、南部の守りに支障が出ぬ範囲で融通しよう。ここへ集まる情報もすべて共有する。」
「兵を出せぬ以上、できることには限りがある。じゃが、その限りまでは惜しむつもりはない。」
リング隊長は深く頭を下げた。
「それだけでも十分です。ありがとうございます。」
シグリアも改めて一礼する。
「辺境伯のお気持ち、確かに受け取りました。このご恩は決して忘れません。」
バルドリックは穏やかに首を横へ振った。
「恩を売るつもりではない。」
その眼差しが、地図に描かれたノルガルト侯国全土へ向けられる。
「儂は王家のためではなく、この国のために動く。それだけのことじゃ。」
誰も反論しなかった。
王が変わろうと、時代が変わろうと、この地で暮らす民を守る。
それこそが、アルゼンハルト辺境伯バルドリックの揺るがぬ信念だった。
やがてバルドリックは軽く息を吐き、表情を和らげる。
「難しい話は、ひとまず終いじゃ。」
「ライゼンを出てから、気の休まる時もなかったじゃろう。今日はこの城でゆっくり休め。部屋も食事も用意させてある。」
その言葉に、リング隊長だけでなく、護衛たちの表情からもわずかに緊張が解けた。
シグリアたちも、ようやく小さく息をつく。
バルドリックは扉の外で控えていた兵士へ声を掛けた。
「客人を案内してやれ。」
「はっ。」
兵士は一礼し、扉を開いて道を譲る。
シグリアは部屋を出る前にもう一度振り返り、バルドリックへ深く頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました。」
「気を遣うでない。」
辺境伯は穏やかに笑う。
「今夜は何も考えず休め。明日からは、また忙しくなる。」
シグリアも小さく微笑み、一行は兵士の案内に従って応接室を後にした。
扉が閉まり、静けさを取り戻した室内で、バルドリックは壁に掛けられた地図を見つめる。
侯都はなお混乱の中にあり、各地では戦火が広がり続けている。
その現実から目を逸らすことなく、辺境伯は地図の南部へ指を置いた。
「まずは、散らばった連中を呼び戻さねばならんな。」




