ノルガルト侯国戦線4
翌朝。
ラーデンの空には雲一つなかった。
澄み渡る青空とは対照的に、街を包む空気は重い。
城門へ続く大通りには、家財を積み込んだ荷車が幾重にも連なり、人々は皆、南を目指して足早に歩いていた。肩を支え合う老夫婦、幼い子どもの手を引く母親、荷車へ負傷者を寝かせた家族――故郷を離れることになった者たちの表情には、不安と疲労が色濃く刻まれている。
戦火はまだこの街へ届いてはいない。
それでも、人々は迫り来る気配を肌で感じ取っていた。
宿の前では、一行も静かに出発の準備を整えていた。
ベルグ商会の商団長は地図を丁寧に畳むと、リング隊長へ向き直る。
「それでは、ここから先は徒歩になります。我々の商隊は街道の途中で東部方面へ向かいますので、皆様とはそこでお別れです」
リング隊長は静かに頷いた。
「ここまで世話になった。」
「こちらこそ。」
商団長は穏やかに微笑む。
「ガストン様からも言付かっております。」
「皆様が、再びライゼンへ遊びに来られる日を楽しみにしている、と。」
シグリアは一歩前へ出ると、深く頭を下げた。
「ベルグ商会には、感謝してもしきれません。」
「商人は信用で飯を食います。」
商団長は柔らかく笑う。
「今回は、その信用を守っただけですよ。」
短い別れを終え、一行は南へ続く街道へ歩き始めた。
ラーデンを離れるにつれ、避難民の列はさらに長くなっていく。
最低限の荷物だけを積んだ荷車を押す農民。家畜を連れて歩く家族。何日も歩き続けたのだろう、靴底が擦り切れた子どもたちも少なくなかった。
誰もが疲れ切っている。
それでも歩みだけは止めない。
立ち止まることが、生きることを諦めるのと同じだと知っているからだった。
ハルヴェンはその光景を見つめ、小さく拳を握り締める。
「……こんなにも。」
エイラも言葉を失ったまま、避難民たちの姿を目で追っている。
シグリアは何も言わなかった。
ただ、一人ひとりの顔を静かに見つめ続けていた。
王女として育った彼女も、これほど多くの民が故郷を捨てる姿を見るのは初めてだった。
やがて前方から規則正しい足音が響いてくる。
「止まらず進んでください!」
「子どもを優先してください!」
「怪我人はこちらへ!」
鎧を身に着けた兵士たちが避難民を手際よく誘導していた。
怒号はない。
混乱もない。
人の流れを整理し、水や食料を配り、負傷者を荷車へ乗せる。その動きには長年鍛え上げられた軍隊らしい統率があった。
レインは静かにその様子を眺める。
「統制が取れていますね。」
「ええ。」
エレアも頷いた。
「南部軍でしょう。まずは民を守ることを最優先にしているようです。」
兵士たちは一行にも視線を向けたが、旅人や商人が混ざる街道では珍しくない集団だと判断したのか、簡単な身分確認だけで通していく。
街道をさらに半日ほど進む。
緩やかな丘を越えた瞬間、その姿が視界いっぱいに広がった。
「……大きい。」
ハルヴェンが思わず息を呑む。
巨大な石壁。
幾重にも築かれた外郭。
空を突くようにそびえる見張り塔。
ノルガルト侯国南部最大の城塞都市――ガルディア。
戦時を想定して築かれた堅牢な城壁の前では、今なお避難民の受け入れが続いていた。
門前には長い列ができ、兵士たちは一人ひとりの身元を確認し、荷物を改めながら城内へ通している。
「止まれ。」
一行が近づくと、門番の一人が槍を下ろした。
「所属と目的を。」
リング隊長が一歩前へ出る。
「旅の者だ。現在は南部への避難を目的としている。」
門番は一行を順に見渡した。
王女も王子も質素な旅装束に身を包み、護衛たちも革鎧姿。
誰が見ても王族とは思えない。
「証明できるものは。」
その声がわずかに鋭さを帯びた、その時だった。
後方に控えていたルークが静かに前へ出る。
懐から取り出したのは、小さな銀色の徽章だった。
門番はそれを見た瞬間、息を呑む。
「……その紋章は。」
ルークは何も答えない。
ただ静かに徽章を懐へ戻しただけだった。
門番は弾かれたように姿勢を正す。
「し、失礼いたしました!」
「少々、お待ちください!」
一人の兵士が城内へ駆け込んでいく。
リング隊長は何も言わない。
レインもまた、黙って巨大な城壁を見上げていた。
十分ほどして。
重厚な門がゆっくりと開き、一人の人物が姿を現した。
壮年の騎士ではない。
白髪を後ろで束ねた、一人の老紳士だった。
年の頃は七十を優に越えている。
濃紺の上着を羽織っただけの簡素な装い。
剣も鎧も身に着けていない。
それでも、その人物が一歩門の外へ出た瞬間、周囲の兵士たちの空気が一変した。
誰一人として口を開かない。
ただ静かに道を開け、その背へ敬意を向けていた。
レインは老人を見た瞬間、ごくわずかに目を細める。
(……強い。)
気配は完全に消している。
それでも隠し切れない圧倒的な存在感だけが、静かに周囲を支配していた。
隣ではエレアも同じように老人を見つめている。
老人は一行をゆっくりと見渡し、その視線はルークの姿で止まった。
深く刻まれた皺の口元が、わずかに緩む。
「……生きておったか、ルーク。」
その静かな一言に、ルークは深く頭を下げた。
「お久しぶりです、閣下。」




