ノルガルト侯国戦線2
ラーデンへ到着した、その日の夕刻。
ベルグ商会が長年利用してきた宿の一室には、この場に集まるべき者たちが静かに顔を揃えていた。
部屋の中央に据えられた大きな机には、ノルガルト侯国全土を描いた地図が広げられている。
エレアは扉と窓を確かめると、静かに魔力を練り上げた。淡い光が壁に沿って走り、床と天井まで覆う透明な膜へ変わっていく。
「これで外へ声が漏れることはありません。」
遮音結界の展開を終え、エレアも席へ着く。
集まっているのは、第一王女シグリア、第一王子ハルヴェン、第二王女エイラ、リング隊長、ルーク、レイン、エレア。そして今回の商隊を率いるベルグ商会の商団長だった。
ほどなくして、扉が控えめに叩かれる。
商団長が入室を許可すると、一人の男が静かに部屋へ入ってきた。
年齢は四十代半ばほど。落ち着いた身なりと物腰は商人らしいが、室内を見渡す目には、この街の異変を見落とすまいとする鋭さがあった。
「お待たせいたしました。ベルグ商会ラーデン支店を預かっております、フェルムと申します。」
短く一礼すると、フェルムは地図の前へ立った。
「早速ですが、現在の状況をご報告いたします。」
その一言で、全員の意識が地図へ集まった。
フェルムはノルガルト侯国北部へ指を置く。
「反乱軍の影響下に入った地域は、日を追うごとに広がっています。国境付近だけではありません。主要街道には検問が増え、商隊から物資を取り上げる行為も露骨になってきました。」
商団長が苦い表情で頷く。
「国境でも酒と食料を持っていかれた。正式な証書もなしにな。」
「こちらにも同様の報告が複数届いております。」
フェルムの指が地図の北部をゆっくりとなぞる。
「武器、食料、馬の買い付けも急増しています。その量は、短期的な戦支度で説明できるものではありません。しかも、その大半が北部へ流れています。」
「反乱軍が集めていると?」
リング隊長が低く尋ねる。
「その可能性が高いと見ています。ただし、名義を分散させた取引が多く、誰が最終的に受け取っているのかまでは掴めておりません。」
断定を避けた返答だったが、状況は十分に伝わった。
反乱は突発的に始まったものではない。
長く戦うための物資が、すでに各地から集められている。
フェルムは指を侯都へ移した。
「ここ数日で、侯都へ向かう商隊は急激に減りました。逆に、侯都周辺から南部へ逃れる住民は増え続けています。」
シグリアが静かに顔を上げる。
「南へ避難しているのですね。」
「はい。現時点で大きな戦闘が確認されているのは、侯都とその周辺です。南部はまだ比較的安全と見られているのでしょう。」
フェルムの指が地図の南側へ下がる。
「ですが、それも長くは続かないと見られています。侯都周辺の戦線が崩れれば、戦火が南へ広がる可能性は高い。そうなれば、現在使われている避難路も閉ざされます。」
部屋へ重い沈黙が落ちた。
エイラは隣に座るハルヴェンへ僅かに身を寄せたが、声を上げることはなかった。ハルヴェンも妹を安心させるように姿勢を崩さず、地図を見つめている。
フェルムは一度息を整えてから、続けた。
「ベルグ商会では、国内各地に支店や取引先を持っております。現在も可能な限り情報を集めておりますが……」
その声が僅かに沈む。
「国王陛下のお居場所だけは、掴めておりません。」
シグリアの表情が僅かに強張った。
ベルグ商会ほどの情報網でも分からない。
国王が意図的に居場所を隠しているのか。それとも、周辺との連絡そのものが途絶えているのか。現時点では判断する材料がなかった。
「侯都に残られている可能性は?」
リング隊長が問う。
「否定はできません。しかし、侯都を離れたという噂も複数あります。ただし、どれも出所が曖昧です。」
「つまり、今は何も断定できないということですね。」
エレアの言葉に、フェルムは静かに頷いた。
「申し訳ございません。」
「いいえ。分からないことを分からないまま報告していただける方が助かります。」
エレアはそう答えると、地図の北側へ視線を移した。
「ライゼンを発つ前、冒険者ギルド副支部長のヴァルケイン殿から、今回の反乱に関する見立てを聞いています。」
全員の視線がエレアへ集まる。
「ヴァルケイン殿は、世界商談会へ集まった商人、冒険者、情報屋たちから得た話を照らし合わせていました。その上で、今回の反乱にはカルドニア王国が深く関与している可能性が高いと見ています。」
リング隊長は否定しなかった。
ノルガルト侯国内でも、すでに多くの者が同じ疑いを抱いている。
「ですが、カルドニア王国も一枚岩ではありません。」
エレアは地図のさらに北、カルドニア王国へ指を移した。
「大国の内部には、複数の派閥があります。王家、軍、貴族、商人。それぞれが異なる利害を抱え、同じ国に属しながら別の思惑で動くことも珍しくありません。」
「今回動いているのも、その中の一派だと?」
シグリアが尋ねる。
「その可能性があります。」
エレアは断定せずに答えた。
「ヴァルケイン殿が特に注目していたのは、《黒雷》ゼクト・ヴァルガンをアルディア王国へ送り込んだ派閥です。」
フェルムが僅かに目を見開く。
その名はノルガルト侯国でも知られていた。
カルドニア王国の上位超越者。
そして、アルディア王国で討たれた男。
レインが静かに言葉を継ぐ。
「ゼクトがアルディア王国へ入った目的について、すべてが公になっているわけではありません。ただ、アルディア王立騎士学校の生徒たちへ被害を与える意図もあったのではないかと見られています。」
「将来の戦力を狙ったと?」
リング隊長の問いに、レインは頷く。
「その可能性は高いと思います。ですが作戦は失敗し、ゼクト本人も討たれました。」
シグリアは少し考えた後、静かに口を開いた。
「その失敗で立場を失った派閥が、ノルガルト侯国で成果を上げようとしている。そう考えられているのですね。」
「そこまでは断定できません。」
エレアはすぐに答えた。
「ですが、時期は重なっています。ヴァルケイン殿によれば、ゼクトを送り込んだ一派は作戦失敗の責任を問われ、以前ほどの発言力を持っていないという話でした。」
フェルムが地図へ視線を落とす。
「失った影響力を取り戻すには、大きな成果が必要になる……。」
「ノルガルト侯国を支配下へ置くことができれば、それ以上の成果はないでしょう。」
リング隊長の低い声に、誰も反論しなかった。
エレアは一度全員の顔を見渡してから、静かに続ける。
「もちろん、すべて推測です。カルドニア王国の誰が、どの程度関わっているのかも分かっていません。」
「ですが商人、情報屋、冒険者たちの話を重ねると、その派閥が今回の反乱を支援しているという見方が、現時点では最も有力だそうです。」
部屋は再び静まり返った。
ベルグ商会が集めた国内の情報。
ライゼンへ集まった各国の情報。
そして、カルドニア王国内部で起きたと見られる派閥争い。
別々の場所から集められた断片は、少しずつ同じ方向を指し始めていた。
今回の内乱は、ノルガルト侯国内だけで完結する争いではない。
カルドニア王国の思惑が絡み、その先にはアルディア王国を含む周辺諸国まで巻き込まれる可能性がある。
シグリアは地図へ視線を落としたまま、静かに口を開く。
「父上を見つけなければなりません。」
迷いのない声だった。
「そして、国内で何が起きているのかを、この目で確かめます。」
誰もすぐには答えなかった。
だが、その場にいる全員が理解していた。
ここから先は、王女一行を侯国へ送り届けるだけでは終わらない。
ノルガルト侯国の行方を左右する戦いへ、すでに足を踏み入れているのだと。




