ノルガルト侯国戦線1
門前に並ぶ商隊の列は、ほとんど動いていなかった。
国境を越えようとする荷馬車は一台ずつ止められ、積荷だけでなく御者や護衛の身分まで細かく確認されている。平時なら通行証と帳簿を照合する程度で済むはずだが、今は荷台の覆いまで外され、箱や樽の中身も容赦なく改められていた。
検査が進むたび、兵士と商人の言い争う声が上がる。長く続く列のあちこちから、苛立ちを含んだため息が漏れていた。
ベルグ商会の商隊も歩みを止めたまま、前方の様子を静かに窺っている。
「ずいぶん念入りですね」
最後尾近くを歩いていたレインが声を落とすと、隣のエレアも門の周囲へ視線を巡らせた。
「内紛が始まった直後です。警戒が厳しくなること自体は不自然ではありません」
「ですが、国境を守るための検査には見えませんね」
「ええ」
門を固める兵士たちは、全員がノルガルト侯国軍の紋章を身につけている。だが装備には統一感がなかった。正規軍が使う鎖帷子を着た者もいれば、古びた革鎧の者もおり、中には傭兵が好んで使う幅広の剣を帯びた男まで混じっている。
内紛に備えて急遽兵を集めた可能性はある。
それでも、彼らの関心は人ではなく、荷に偏りすぎていた。
商人の名や取引先はほとんど聞かず、武器や食料だけでなく、布、酒、香辛料、魔導具まで、価値のありそうな物が見つかるたびに検問隊長らしき男へ報告している。
国境の警備というより、持ち去る荷を選んでいるようだった。
やがて前方で怒鳴り声が上がる。
「これは世界商談会で正式に買い付けた品だ! 勝手に持っていかれては困る!」
中年の商人が荷馬車へしがみつくように叫ぶ一方で、兵士たちは酒樽を二つ地面へ降ろしていた。
「戦時徴発だ。侯国軍のために必要となる」
「ならば証書を出せ! 代金は誰が払う!」
「命があるだけありがたいと思え」
兵士の一人が剣の柄へ手を掛けると、商人は顔を歪めながらも樽から手を離した。
酒樽は門脇へ運ばれ、すでに積み上げられている食料や布の山へ加えられていく。
「正規の徴発なら、証書か記録が残るはずです」
「少なくとも、そのつもりはなさそうですね」
レインとエレアはそれ以上言葉を交わさなかった。
少し前方では、リング隊長が商団長の近くに立ち、何事もないように検問を見守っている。王女一行の護衛を務める彼にとって、この状況は軽く見られるものではないはずだが、その表情には何も浮かんでいない。
シグリアたちが乗る荷馬車も、隊列の中ほどで静かに順番を待っていた。
やがて前の商隊が門を抜け、ベルグ商会の先頭車両へ兵士たちが近づいてくる。
「商会名と目的地を答えろ」
検問隊長は四十代ほどの男だった。ノルガルト侯国軍の外套を羽織っているものの、胸元の留め具は規格品ではなく、鎧にも何度も補修した跡が残っている。
商団長は荷馬車を降り、慌てることなく通行証を差し出した。
「ライゼンのベルグ商会です。目的地は東部のカルディス。その後は侯都まで向かう予定となっております」
「この状況で侯都へ行くのか」
「情勢が変わったからといって、すべての商いを止めるわけにはまいりませんので」
検問隊長は鼻を鳴らし、通行証へ目を落とした。
ベルグ商会の名は知っているらしく、露骨に疑う様子はない。しかし、その視線はすぐ背後の荷馬車へ移った。
「積荷をすべて確認する」
「どうぞ。ただし、傷みやすい品もございます。扱いにはお気をつけください」
商団長は止めようとしなかった。
荷を調べられることまでは、出発前から織り込み済みなのだろう。御者も護衛も余計な動きを見せず、兵士たちが荷台へ上がるのを黙って見守っていた。
一台目には織物と加工前の革。
二台目には酒と乾燥食料。
三台目には農具と日用品。
どれも帳簿の内容と一致しており、隠すような品は一つもない。
それでも兵士たちは検査を終えようとせず、箱や樽を何度も叩きながら価値を確かめていた。
「侯国軍への臨時供出として、酒を五樽、干し肉を三箱、それに革を二束出してもらう」
検問隊長が当然のように告げる。
商団長は表情を変えなかった。
「ずいぶんと多いですな」
「内紛が終われば、侯国から正式な補償が出る」
証書を出す様子はない。
先ほどの商人には口にしなかった以上、補償という話もベルグ商会を納得させるための方便に過ぎないのだろう。
商団長は少し考えるふりをしてから、静かに答えた。
「酒を二樽、干し肉を二箱ならば供出いたしましょう。革は侯都の工房から正式に注文を受けている品です。ここで渡せば、後々そちらにも問題が生じます」
検問隊長の目が細くなる。
周囲の兵士たちも商団長を睨んだが、ベルグ商会から無理に奪えば、後で面倒が起きることくらいは理解しているらしい。
「酒を四樽、干し肉を二箱だ」
「承知しました」
商団長はそれ以上争わず、御者へ荷を降ろすよう指示した。
最初から取られることを想定していたのだろう。選ばれた樽や箱は荷台の外側へ積まれており、商会の者たちも迷うことなく作業を進めていく。
その間にも、別の兵士たちが後方の荷馬車へ向かっていた。
レインは護衛として商隊全体へ目を配るふりをしながら、自然な足取りで隊列に沿って歩いていく。
シグリアたちが乗る荷馬車へ近づいたところで、リング隊長と視線が重なった。
ほんの一瞬だった。
だがリング隊長の目は荷台ではなく、その前に立つ若い兵士へ向けられている。
レインも男を見た。
二十代半ばほどで、他の兵士より装備が整っている。鎧には侯国軍の正式な刻印が残り、剣の扱いにも慣れていることが立ち方だけで分かった。
寄せ集めの傭兵ではない。
そして、その男は荷台から降りたシグリアの顔をじっと見つめていた。
シグリアは落ち着いた商家の婦人を思わせる服を身につけ、髪型も普段とは変えている。正体を知らなければ、旅に慣れた裕福な商人の妻にしか見えない。
それでも、男の記憶に何かが引っ掛かったらしい。
「そこの女」
呼び止められたシグリアは、慌てることなく足を止めた。
「何でしょうか」
「どこかで会ったことはないか」
周囲の空気がわずかに変わる。
リング隊長たちは動かない。
ハルヴェンとエイラも荷馬車の中で姿勢を崩さず、商家の子どもとして母親の様子を見守っている。
「申し訳ありませんが、覚えがございません。夫の商いに付き添って各地を回っておりますので、どこかですれ違ったことはあるかもしれませんが」
受け答えは自然だった。
だが、兵士の疑念は消えていない。
むしろ整いすぎた言葉遣いが、曖昧だった記憶を刺激した可能性もある。
若い兵士が一歩近づく。
「ライゼンから来たのか」
「はい」
「商談会の間も、ずっと街に?」
「夫の仕事がございましたので」
質問が少しずつ細かくなっていく。
兵士自身も、何に引っ掛かっているのか確信はないのだろう。それでも、このまま顔を見続けられれば、記憶の中にある王女の姿と結びつく可能性がある。
レインは周囲へ視線を走らせた。
その時、王女たちの荷馬車の後輪近くで、積荷を調べていた別の兵士が何度も周囲を気にしていることに気付く。
男の手は腰の革袋へ伸びていた。
次の瞬間、その袋を荷箱の隙間へ押し込もうとする。
禁制品を仕込み、見つけたふりをして金を要求するつもりなのだろう。
「何をしているんですか」
レインの声に、兵士の手が止まった。
周囲の視線が一斉に集まる。
「何の話だ」
男は咄嗟に革袋を背後へ隠したが、その動きがかえって目立った。
レインは必要以上に近づかず、護衛らしい険しい表情を作る。
「今、その袋を荷箱へ入れようとしていましたよね。うちの積荷ではありません」
「馬鹿なことを言うな。検査中に見つけたものだ」
「見つけたのなら、なぜ荷箱ではなく、ご自分の腰から出てきたんです?」
門前がざわつき始めた。
同じ手口で金を取られた者がいたのか、別の列からも怒声が上がる。
「さっきの禁制品も仕込まれたんじゃないのか!」
「俺たちの荷にも勝手に袋を入れていただろう!」
「黙れ!」
兵士が怒鳴るものの、騒ぎは収まらない。
検問隊長も険しい顔でこちらへ歩いてきた。
ベルグ商会だけの話なら力で押さえ込めたかもしれない。だが門前には数十台の荷馬車と、その倍以上の商人や護衛がいる。
不正を認めれば、これまでの徴発まで疑われる。
かといって全員を力で黙らせれば、暴動になりかねない。
「その袋を渡せ」
検問隊長が命じると、兵士は顔を青ざめさせながら革袋を差し出した。
中から出てきたのは、封印された小瓶だった。中身は分からないが、少なくともベルグ商会の正規の取引品ではない。
「こいつを連れていけ」
「隊長、違います。俺は――」
「連れていけ!」
二人の兵士が男の腕を掴み、門脇の詰所へ引きずっていく。
騒ぎの中心がそちらへ移ったことで、シグリアを問い詰めていた若い兵士も顔を背けた。
一度だけシグリアへ視線を戻したものの、検問隊長から早く調査を終わらせろと怒鳴られ、渋々荷台の確認へ戻っていく。
リング隊長は何も言わなかった。
ただレインの横を通り過ぎる際、ほんのわずかに頷いた。
それだけで十分だった。
ほどなくして、すべての荷馬車の検査が終わる。
ベルグ商会は約束した酒と干し肉を残し、ようやく重い国境門を通過した。
城壁が背後へ遠ざかっても、商隊は速度を上げなかった。
国境を抜けた直後に急げば、それだけで何かを隠していると疑われかねない。ベルグ商会の者たちは何事もなかったように隊列を整え、普段どおりの速度で東へ進んでいく。
しばらくして、エレアがレインの隣へ並んだ。
「よく見ていましたね」
「たまたまです。あの兵士、隠すのが下手でしたから」
「そういうことにしておきましょう」
少し前方では、リング隊長がシグリアたちの荷馬車の横を歩いている。
若い兵士について話したいはずだが、街道上で不用意に口を開くことはできない。
国境を越えてから一刻ほど経った頃、前方から十数騎の騎兵が姿を現した。
ベルグ商会の護衛たちが警戒を強める。
しかし騎兵たちは商隊を囲まず、街道脇へ馬を寄せた。
先頭の男が身につけている鎧は、国境の兵士たちより明らかに整っていた。胸元にはノルガルト侯国軍の正式な紋章が刻まれ、部下たちの装備にも統一感がある。
商団長が軽く会釈すると、騎兵隊長も馬上から応じた。
「ライゼン方面から来た商隊か」
「はい。ベルグ商会です」
「国境で問題はなかったか」
商団長は僅かに間を置いた。
「侯国軍への臨時供出として、酒と食料を一部納めました」
騎兵隊長の顔が険しくなる。
「誰の命令だ」
「検問隊長は、侯国軍のためだと」
「馬鹿な」
男は吐き捨てるように言った。
「国境守備隊には、商隊から物資を徴発する権限など与えられていない」
ベルグ商会の者たちが互いに顔を見合わせる。
騎兵隊長は国境の方角へ一度だけ目を向け、すぐに馬首を戻した。
「三日前、国境守備隊の一部が反乱側へ寝返ったという報告が入っている。ただし、誰が残り、誰が入れ替わったのかまでは確認できていない」
「では、先ほどの者たちは……」
「反乱兵か、混乱に乗じた傭兵だろう。どちらにせよ、侯国軍から正式な命令は出ていない」
騎兵隊長は後続の部下へ合図を送った。
「我々は国境を確認する。そちらは日が暮れる前にラーデンへ入れ。この先の街道も安全とは言えん」
「ご忠告、感謝いたします」
商隊は道を譲り、騎兵たちが国境へ向かって駆けていくのを見送った。
蹄の音が遠ざかると、リング隊長が隊列の中ほどから最後尾近くまで下がってくる。
周囲に他の者がいないことを確かめ、声を抑えた。
「国境にいた若い兵士は、侯都の外門で警備をしていた者だと思う」
「王女殿下を直接見たことがある可能性が?」
エレアが尋ねる。
「遠目なら何度か。こちらは名まで知らないが、向こうは私の顔を覚えていたかもしれない」
「それで、シグリア様と隊長を見ていたんですね」
レインの言葉に、リング隊長は頷いた。
「あの場で戦いになれば、正体を隠すことは難しかった。助かった」
「不正を見つけただけです」
「その不正を、あの状況で見つけられる者は多くない」
リング隊長はわずかに苦笑したが、それ以上の会話は続けなかった。
街道の先に人影が見えたためである。
商隊はすぐに普段どおりの隊列へ戻り、日が傾き始めた空の下を東へ進んでいく。
途中で見える村は静まり返り、畑に出ている者も少ない。街道沿いの茶屋は扉を閉ざし、軒先には営業を休止する旨を書いた板が掛けられていた。
まだ戦火が届いているわけではない。
それでも、人々はすでに内紛へ怯えている。
日没が近づいた頃、商隊はようやくラーデンの街へ到着した。
国境から最も近い宿泊都市であり、平時なら商隊や旅人で賑わう場所だが、門前には普段とは異なる緊張が漂っている。
城壁の上にはノルガルト侯国の旗が掲げられ、その下には王家への忠誠を示す白い布が結ばれていた。
表向きは王党派の街らしい。
だが門を守る兵士たちの視線は鋭く、街へ入る者よりも、街から出ようとする者を厳しく調べている。
ベルグ商会は国境で発行された通行証を見せ、簡単な確認だけで門を通された。
街の中へ入ると、店の多くはまだ開いていたものの、人々の足は早かった。誰も兵士と目を合わせようとせず、知人同士でさえ道端で長く話そうとしない。
掲示板には、相反する二種類の布告が並んでいた。
一枚は、王家へ反旗を翻した者を反逆者として処罰すると告げるもの。
もう一枚は、腐敗した侯国政府から民を解放するために立ち上がれと呼び掛けるものだった。
後者には何度も墨を塗った跡がある。
それでも完全には剥がされず、その場に残っていた。
誰が貼り、誰が消そうとし、なぜ今も残されているのか。
それだけで、この街の支配が一枚岩ではないことは十分に伝わってくる。
商隊は大通りから少し離れた宿へ入った。
ベルグ商会が以前から利用している宿らしく、主人は商団長の顔を見ると安堵したように息を吐いたが、すぐに周囲を確かめて扉を閉めた。
荷馬車は裏の厩へ運ばれ、護衛たちも順番に中へ入っていく。
シグリアたちが二階の部屋へ案内された後、宿の主人は商団長を呼び止めた。
「今夜は外へ出ない方がいい」
低く抑えた声だった。
「何かあったのですか」
「何かあったかじゃない。毎日、何か起きている」
主人は窓の隙間から通りを確認し、さらに声を落とした。
「昼間は王党派の兵が門を守り、夜になると別の連中が街を歩く。どちらも自分たちが正規軍だと言っているが、住民には見分けがつかん」
「街を治める者は?」
「昨日までは王党派の指揮官がいた。だが今朝から姿を見ていない」
宿の中が静まり返った。
主人は商団長だけでなく、その後ろに立つリング隊長、エレア、レインへ順番に目を向ける。
「この街では、昨日の味方が今日も味方とは限らない」
一度言葉を切り、低い声で続けた。
「兵の旗も、鎧も、言葉も信じるな」
それだけ告げると、主人は客室の準備へ戻っていった。
レインは閉じられた扉を見つめた後、窓の外へ視線を向ける。
日が沈み、通りへ夜の暗さが広がり始めていた。
その中を、王党派の紋章を身につけた兵士たちが歩いている。
だが、彼らが本当に誰の兵なのか。
今のラーデンでは、もう誰にも分からなかった。




