逃亡王女6
酒場を後にしたレインとエレアが宿へ戻った頃には、太陽はすっかり高く昇っていた。
世界商談会は昼を前にさらに活気を増し、大通りでは商人たちの威勢の良い声が絶え間なく響いている。その喧騒とは対照的に、宿の奥は穏やかな静けさに包まれていた。
帳場に立っていたグラディウスは二人を見ると、小さく頷く。
「戻ったか。」
「皆さんは。」
「少し前に起きられた。朝飯も済んでる」
「ありがとうございます。」
二人はそのまま大部屋へ向かった。
扉を開けると、昨夜よりも落ち着きを取り戻した空気が流れていた。
リング隊長をはじめ護衛たちは交代で警戒を続け、王女と二人の子どもも席についている。疲れは残っているものの、昨夜の張り詰めた空気は幾分和らいでいた。
レインたちに気付いた王女は静かに立ち上がり、深く一礼する。
「昨夜は十分なお礼も申し上げられませんでした。改めまして、私たちを助けてくださり、本当にありがとうございました。」
レインも軽く頭を下げた。
「お気になさらないでください。私たちは依頼を果たしただけです。」
王女は穏やかに微笑み、ゆっくりと口を開く。
「昨夜は状況が状況でしたので、ご挨拶もできませんでした。」
一呼吸置き、背筋を伸ばした。
「私はノルガルト侯国第一王女、シグリア・フォン・ノルガルトです。」
隣の少年も立ち上がる。
幼さは残るものの、その姿勢には王族らしい気品があった。
「第一王子、ハルヴェン・フォン・ノルガルトです。」
続いて、小柄な少女も慌てて立ち上がる。
「エイラ・フォン・ノルガルトです。」
緊張した様子で頭を下げる姿は年相応だったが、その所作には自然と王族としての品格が滲んでいた。
レインとエレアも改めて名乗る。
「レインです。」
「エレアです。」
互いに挨拶を交わしたところで、王女は部屋の隅へ視線を向けた。
「そして、もう一人。」
黒い外套をまとった男が静かに歩み出る。
深く被ったフードが表情を隠していた。
男はレインたちの前で足を止めると、短く名乗る。
「ルーク。」
それだけだった。
家名も肩書きも語らない。
王女が静かに補足する。
「ルークは父直属の護衛です。その存在を知るのは父と、ごく限られた側近だけ。私たちを守るよう、父から密命を受けています。」
ルークは小さく頷いた。
「私の任務は、王女殿下とお二人をお守りすること。」
「その任務は、今後も変わりません。」
それ以上は何も語らない。
静かな立ち姿だけで、長年王家の影として生きてきた人物であることが伝わってきた。
その時、廊下から足音が近付いてくる。
控えめなノックの後、扉が開いた。
「失礼するぞ。」
ガストンだった。
穏やかな笑みを浮かべながら部屋へ入り、一人ひとりの無事を確かめる。
「皆様、ご無事で何よりです。」
王女へ一礼すると、その表情はすぐに引き締まった。
「さて。」
その一言だけで、部屋の空気が変わる。
全員が席に着いたのを確認し、ガストンは静かに話し始めた。
「昨夜お伝えしたとおり、ノルガルト侯国では反体制派が本格的に動き始めています。」
「さらに、王女殿下と王子殿下、それにエイラ様の行方が分からなくなったことも、すでに国内へ広まっております。」
昨夜から予想していたことではあった。
だが、時間が経つほど敵も動きやすくなる。
ガストンは王女へ真っ直ぐ視線を向ける。
「そこで改めて、お伺いします。」
「この先、どのようになさるおつもりですかな。」
部屋が静まり返る。
シグリア王女は迷うことなく答えた。
「帰国します。」
静かな声だった。
しかし、その決意は誰の耳にもはっきりと伝わる。
「父上は今も国のために戦っています。」
「私だけが国外へ身を隠し続けるわけにはまいりません。」
リング隊長は深く頷いた。
「殿下がお決めになられたのであれば、我々は命に代えてもお守りいたします。」
王女はルークへ視線を送る。
「ルーク。」
男は一歩前へ出た。
「私の任務は、国王陛下より王女殿下とお二人をお守りすること。」
「今後も王女殿下のご判断に従います。」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
ガストンは腕を組み、しばらく考え込んでから静かに口を開く。
「承知しました。」
「ベルグ商会では二日後、ノルガルト侯国へ向かう商隊が予定どおり出発します。」
リング隊長が顔を上げる。
「積荷も護衛も変更はありません。」
「世界商談会の最中でも、商いは止まりませんからな。」
商人として当然の判断だった。
「ただし、それまでは動けません。」
「出発まで二日。」
「その間に商隊の最終準備を整え、街の動きも見極めます。」
そしてレインたちへ視線を向けた。
「それまで皆さんには、この宿で身を潜めていただきたい。」
「外のことは、わしら商人に任せてもらおう。」
誰も異論はなかった。
今優先すべきは、敵より先に動くことではない。
確実にノルガルト侯国へ送り届けることだった。
全員の表情を見渡したガストンは、小さく頷く。
「では、それぞれ準備に取り掛かりましょう。」
その一言を合図に、部屋にいた全員が静かに立ち上がった。
二日後の出発に向け、それぞれが果たすべき役目を胸に秘めながら。




