逃亡王女3
リング隊長は剣から手を離したものの、警戒を解いたわけではなかった。
レインとエレアから一定の距離を保ち、人通りの多い道を避けながらベルグ商会へ向かう。途中で言葉を交わすことはなく、三人は幾度も裏通りを曲がり、正面玄関ではなく荷の搬入口に面した裏口から商会の中へ入った。
従業員が案内した先は、普段使われている応接室ではなく、重要な商談に用いられる小部屋だった。窓はなく、外へ音が漏れないよう壁も厚く造られている。
三人が入ると、従業員は一礼して扉を閉めた。
室内には、先に待っていたガストンとレインたちだけが残る。
「リング殿。」
ガストンが名を呼ぶと、リング隊長はその場で片膝をついた。
「ガストン殿。どうか、我々にお力をお貸しください。」
その声に迷いはなかった。
王女殿下達を守るためなら、騎士としての体面にこだわるつもりなどないのだろう。
ガストンはすぐに立つよう促し、向かいの椅子を示した。
「頭を下げるのは後でええ。まずは状況を聞かせてくれ。王女殿下と子ども達は無事なんじゃな。」
「はい。負傷者はおりますが、殿下方に大きなお怪我はありません。生き残った護衛も、現在は全員そちらで警護に当たっています。」
その返答を聞き、ガストンは安堵したように小さく息を吐いた。
リング隊長は続けて、昨夜の襲撃について説明する。
異変が起きたのは深夜。
護衛隊の半数が突然持ち場を離れ、王女殿下達の部屋へ向かった。命令系統を無視した動きに気付いたリング隊長たちが止めに入り、屋敷の奥で戦闘になったという。
その隙に王女殿下達を地下へ逃がし、北区の倉庫を経由して南区まで移動した。
「倉庫や地下水路を用意したのは、名簿に記されていた正体不明の男ですか。」
レインが尋ねると、リング隊長は静かに頷いた。
「名簿には護衛として記載されていましたが、我々の隊に所属する者ではありません。」
ガストンの目が僅かに細くなる。
「では、何者なんじゃ。」
「分かりません。」
リング隊長は正直に答えた。
「その方が現れたのは、我々がライゼンへ到着してから二日後です。王女殿下へ直接面会を求め、国王陛下から預かったという印を示しました。」
男は深くフードを被り、名も所属も明かさなかった。
リング隊長自身も詳しい説明を受けていない。ただ、王女殿下は印と男が伝えた言葉を確認した上で、同行を許したという。
「王女殿下は、その男を信用されたのですね。」
エレアの問いに、リング隊長は少し考えてから答えた。
「少なくとも、敵ではないと判断されました。」
そして襲撃の夜。
その男は誰よりも早く護衛隊の異変へ気付き、王女殿下たちの退路を確保した。
北区の倉庫を中継地点として用意したのも、地下水路を使う案を出したのも、追っ手を惑わせる魔法陣を仕掛けたのも、すべて彼だった。
「あの方がいなければ、屋敷から脱出することすら難しかったでしょう。」
「信用できるのですか。」
エレアが改めて尋ねる。
リング隊長は即答しなかった。
「分かりません。ですが、あの場では信用するしかありませんでした。」
王女たちを救ったことは事実。
一方で、男の正体も目的も分からない。
助けられたからといって、すべてを信じていい相手とは限らなかった。
ガストンは机へ指を置き、しばらく考えてから顔を上げた。
「今はどこにおる。」
「南区の端にある金属工房です。古くから王家と取引のある職人が匿ってくれています。」
「安全なのか。」
「今のところは。ただ、長く留まれる場所ではありません。周辺を探る者も増えています。」
そのためリング隊長は部下二人と工房の周辺を確認していた。
そこで地下水路から現れたレインとエレアを発見し、王女たちの足取りを追う者と判断して尾行したらしい。
「なるほどの。」
ガストンはレインとエレアへ視線を移した。
「わしが大勢を連れて行けば目立つ。リング殿と一緒に、二人だけで王女殿下のもとへ行ってくれんか。」
「分かりました。」
レインが答え、エレアも異論なく頷く。
「ただし、ガストンさんの提案を受け入れるかどうかは、王女殿下に判断していただきます。」
「もちろんじゃ。無理に動かして、かえって危険にさらしては意味がない。」
話を終えると、リング隊長はレインとエレアを伴い、再び商会の裏口から外へ出た。
南区へ戻る道中、リング隊長は何度も通りを変えた。
表通りを避け、工房と住居が密集する細い道を選ぶ。時には人の流れへ紛れ、別の路地へ入ってから同じ道を戻る。
追跡者の有無を確かめるだけでなく、目的地を悟らせないための動きだった。
レインとエレアも何も尋ねず、その足取りへ合わせる。
やがて三人は、南区の端にある小さな金属工房へ辿り着いた。
表では年配の職人が槌を振るっている。火花と金属音が絶え間なく響き、店内にも特別変わった様子はなかった。
リング隊長は店主と言葉を交わすことなく奥へ進み、資材置き場に並ぶ棚へ手を掛けた。
重い棚を横へ動かすと、その裏から人一人が通れるほどの狭い扉が姿を現す。
扉の先にあった階段を下りる。
その先には、工房の地下とは思えないほど広い部屋が造られていた。
壁際には負傷した護衛が座り、その傍らで別の護衛が傷の手当てをしている。入口と奥の扉にも一人ずつ立ち、いつでも剣を抜けるよう周囲を警戒していた。
部屋の中央では、幼い子ども達が互いに身を寄せ合っている。
その傍らに座る王女殿下も、すでに豪華な衣装を脱ぎ、目立たない旅装へ着替えていた。背筋は崩していないものの、長い逃走と緊張による疲労までは隠し切れていない。
そして部屋の最奥。
太い柱へ背を預けるように、一人の男が立っていた。
全身を黒い外套で覆い、フードを深く被っているため顔は見えない。目立った武器も持っていないが、レインとエレアが地下室へ入った瞬間、その意識だけが鋭く二人へ向けられた。
リング隊長は王女殿下の前まで進み、片膝をついた。
「殿下。ただいま戻りました。」
王女殿下はリング隊長の無事を確認してから、その後ろに立つ二人へ視線を向けた。
「そちらの方々は?」
「ガストン・ベルグ殿から遣わされた冒険者です。地下水路を辿って我々の足取りを見つけ、こちらが姿を見せる前から尾行にも気付いておられました。」
王女殿下はレインとエレアを順に見る。
「信用できるのですか。」
「ガストン殿が信用している方々です。少なくとも、今の我々へ刃を向ける者ではありません。」
リング隊長がそう告げても、護衛たちは構えを解かなかった。
仲間の半数に裏切られた直後である。
ガストンの名を聞いた程度で、見知らぬ冒険者を全面的に信用できるはずがない。
レインは余計な弁明をせず、王女殿下へ静かに一礼した。
「ガストンさんは、皆さんを別の場所へ移す準備を進めています。」
「別の場所とは?」
「私たちが滞在している宿です。」
護衛たちの空気が僅かに動く。
「商会や迎賓館より人の出入りが多く、旅人が増えても不自然ではありません。主人も信頼できます。」
「今すぐ移るのですか。」
「いいえ。明るいうちに大人数で動けば目立ちます。日が暮れて人の流れが落ち着いてから、数組に分かれて移動するのがよいでしょう。」
王女殿下はすぐには答えず、リング隊長と部屋の奥に立つフードの男へ視線を向けた。
先に口を開いたのは、フードの男だった。
「悪くない。」
低い声が地下室へ響く。
「ここはすでに長く使えない。周辺を探る者も増えている。移動するなら今夜が限界だ。」
リング隊長も王女殿下へ向き直る。
「ガストン殿の商会へ直接移れば、必ず注目を集めます。しかし宿屋であれば、商談会へ集まった旅人の中へ紛れることができます。」
王女殿下は子ども達と負傷した護衛へ目を向け、短く考えたあとで頷いた。
「分かりました。皆に準備をさせてください。」
移動は日が落ちてから行うことになった。
負傷した護衛は仕事を終えた職人に見える服装へ替え、子ども達も商家の家族として目立たない衣服を身につける。護衛たちは数人ずつ時間をずらし、異なる道を使って宿へ向かう。
レインとエレアは一度先に戻り、グラディウスへ事情を伝えた上で、裏口と必要な部屋を確保する役目を引き受けた。
話がまとまる間も、フードの男だけは柱から離れなかった。
レインとエレアが地下室を出ようとした時、その低い声が背中へ届く。
「お前たち、本当にただの冒険者か。」
レインは足を止めたが、振り返らなかった。
「今は、それで十分でしょう。」
短い沈黙。
男も、それ以上は何も尋ねなかった。




