逃亡王女2
床板の下へ続く石段は、長い年月を経て角が丸く削れていた。
レインを先頭に地下へ降りると、湿った空気が肌を撫でる。天井は低く、通路の幅も人が二人並んで歩けるほどしかない。足元では細い水路が絶え間なく流れ、本来なら消えているはずの魔導灯が、一定の間隔を空けて淡い光を放っていた。
ライゼン建国以前から使われてきた地下水路。
かつて物流と治水を支えていたその通路は、街の発展とともに役目を終え、現在では一部を除いてほとんど使われていない。
誰かが通るため、あらかじめ魔導灯を点けていたのだろう。
レインは周囲を観察しながら、慎重に歩みを進めた。
床へ残る泥。
壁へ擦れた布の跡。
そして、一定の間隔を保って続く複数の靴跡。
「こちらですね。」
小声で告げると、エレアも足跡を確認して静かに頷いた。
護衛たちは、ただ闇雲に逃げたわけではない。足跡は大きく乱れておらず、負傷者や子どもたちを庇いながらも、隊列を保って移動した様子が見て取れる。
王女たちを連れ出した者の中には、冷静に全体を指揮できる人物がいた。
しばらく進んだところで、レインが不意に右手を上げる。
エレアは何も尋ねず、その場で足を止めた。
「……何かありますか。」
「前です。」
レインの視線は床へ向けられていた。
一見すれば、何の変哲もない古い石畳にしか見えない。だが注意深く目を凝らすと、淡い青白い線が石と石の隙間を縫うように刻まれていた。
魔法陣。
それも、床の汚れや石の亀裂へ紛れ込ませた、設置型の術式だった。
エレアも目を凝らし、僅かな魔力の流れを捉える。
「幻影系ですね。」
「ええ。踏めば発動します。」
レインはしゃがみ込み、術式へ触れない距離から魔力の流れを追った。
「一本道を、複数の通路に見せるためのものでしょう。」
実際には存在しない分岐を見せ、追跡者の方向感覚を狂わせる。
一本道しかない地下水路だからこそ効果は大きい。存在しない道へ誘い込まれれば、追跡者は同じ場所を進み続けていることにさえ気付けない。
エレアは僅かに感心したように息を吐いた。
「よく考えられていますね。」
「追われることを最初から想定していたのでしょう。」
レインは術式の端へ視線を移す。
床全体を覆っているように見える魔法陣だったが、壁際の一部だけ魔力の線が途切れていた。
「解除する必要はありません。こちらを通れます。」
人一人が身体を横へ向け、ようやく進める程度の隙間だった。
二人は壁へ身体を寄せ、術式へ触れないよう慎重に進む。魔法陣の範囲を抜けると、地下水路には再び水音だけが響き始めた。
それから十分ほど歩いた頃、通路の先へ淡い陽光が差し込んでいることに気付いた。
レインは短い石段を上り、頭上の鉄蓋へ静かに手を掛ける。僅かに持ち上げ、隙間から外の様子を窺った。
人影はない。
遠くから荷車の車輪が石畳を軋ませる音だけが聞こえてくる。
「大丈夫です。」
二人は周囲を確認しながら地上へ出た。
そこはライゼン南区の外れだった。
中央区のような華やかさはなく、通り沿いには鍛冶屋や木工房、小規模な工房が軒を連ねている。煙突から白い煙が立ち上り、職人や荷運びの男たちが慌ただしく行き交っていた。
世界商談会を表から支える者たちが暮らす街。
王族が身を隠す場所としては意外だが、人の流れへ紛れるには都合が良い。高貴な身分の者がいるとは、誰も考えないだろう。
「街の外へは出ていませんね。」
エレアが周囲を見回しながら告げる。
レインも静かに頷いた。
「地下水路は脱出のためではなく、追跡を撒くために使ったのでしょう。」
そう答えた直後、レインの足が止まった。
一拍遅れて、エレアも歩みを止める。
互いに顔は向けない。
視線も動かさない。
それでも二人には十分だった。
「……いますね。」
「ええ。三人です。」
屋根の上。
路地の奥。
積み上げられた木箱の陰。
露骨な視線も殺気も感じない。ただ、こちらが少しでも不審な動きを見せれば、即座に仕掛けてくるだけの警戒心が向けられていた。
「王女殿下の護衛でしょうか。」
「まだ分かりません。」
レインは足を進めながら声を落とす。
「ですが、私たちを見失うつもりはないようです。」
王女たちを追う者であれ、守る者であれ、地下水路から現れた二人を放置する理由はない。
「気付いていない振りをしましょう。」
「分かりました。」
二人は依頼帰りの冒険者を装ったまま、南区の通りを歩き続けた。
しばらく進んだところで、レインは何気ない足取りのまま細い路地へ入る。
商会や工房が並ぶ大通りとは異なり、人の姿はほとんどない。両脇には古い石造りの建物が迫り、昼間だというのに陽射しも僅かしか届いていなかった。
エレアも何も言わず後へ続く。
曲がり角を一つ。
さらにもう一つ。
人の気配が完全に途絶えたところで、レインとエレアは歩調を変えた。
追っていた三人が角を曲がる。
しかし、その先に二人の姿はなかった。
「――っ!」
三人が反射的に周囲を見回した、その直後。
「こちらです。」
静かな声が背後から響いた。
男たちが一斉に振り返る。
いつの間にか、レインとエレアが路地の入口を塞ぐように立っていた。
三人は迷わず剣へ手を掛ける。
張り詰めた空気の中、レインは武器へ手を伸ばさなかった。
「剣を抜くつもりはありません。」
「私たちは、あなた方と争うために来たわけではありません。」
三人は警戒を解かない。
中央に立つ壮年の男が、低い声で問い掛けた。
「何者だ。」
レインは男を真っ直ぐ見つめる。
ガストンから渡された名簿には、護衛たちの年齢や容姿、役職も簡潔に記されていた。目の前に立つ男の特徴は、その中の一人と一致している。
「リング隊長。」
男の瞳が大きく揺れた。
「……なぜ、その名を知っている。」
その反応だけで十分だった。
レインは落ち着いた口調のまま続ける。
「ガストン・ベルグさんから依頼を受けました。」
「王女殿下と子どもたちの安全を確保するため、私たちは動いています。」
三人は短く視線を交わした。
だが、剣から手を離す者はいない。
護衛隊の半数が裏切った直後である。見知らぬ冒険者がガストンの名を出した程度で信用できるはずがなかった。
リング隊長は鋭い眼差しを向けたまま告げる。
「ガストン殿の名を出せば、我々が信用するとでも思ったか。」
「思っていません。」
レインは迷わず首を横へ振った。
「だからこそ、王女殿下の居場所を聞くつもりもありません。」
「あなた方が私たちを信用できないのは当然です。」
短い沈黙が流れる。
レインは三人を刺激しないよう、ゆっくりと一歩だけ後ろへ下がった。
「リング隊長お一人で構いません。私たちとベルグ商会へ来てください。」
「残るお二人は王女殿下のもとへ戻ればいい。」
三人の表情が僅かに変わった。
こちらへ王女の居場所を明かす必要はない。仮に罠だったとしても、同行するのは一人だけで済む。
「ガストンさんの前であれば、少なくとも私たちが正体不明の敵ではないことは確認できます。」
「その後で信用できないと判断されたなら、私たちはこれ以上追いません。」
リング隊長はレインを見据えたまま動かなかった。
隣の護衛が小声で呼び掛ける。
「隊長……。」
迷いはある。
それでもライゼンで信用できる人物を一人挙げるなら、ガストン・ベルグの名は真っ先に挙がる。
王女たちの状況を考えれば、外部との協力をすべて拒み続けることも難しい。
長い沈黙の末、リング隊長はゆっくりと剣から手を離した。
「……いいだろう。」
「私一人で同行する。」
残る二人の護衛へ振り返る。
「お前たちは戻れ。私が戻らなければ、すぐに場所を移せ。」
「承知しました。」
二人はレインとエレアを警戒したまま、別々の路地へ姿を消した。
リング隊長はそれを見届けてから、改めて二人へ向き直る。
「案内してもらおう。」
「こちらです。」
こうしてレインとエレアはリング隊長を伴い、人目を避けながら再びベルグ商会へ向かうことになった。




