逃亡王女1
ベルグ商会を出たレインとエレアは、人通りの多い中央通りを抜け、そのまま北区へ足を向けた。
古い煉瓦造りの倉庫が建ち並ぶ北区は、中央区ほど人通りは多くない。運河沿いには使われなくなった倉庫も点在し、昼間でありながら静まり返っている場所も少なくなかった。
「ガストンさんが話していた倉庫は、この辺りですね。」
エレアが地図を確認すると、レインは歩調を変えず周囲へ視線を巡らせた。
「まずは外から見てみましょう。」
二人は目的の倉庫の前を何気なく通り過ぎる。
扉には錆びた錠前。
窓には板が打ち付けられ、一見すれば何年も使われていない廃倉庫だった。
しかし、近付いてみると違和感が次々と目に入る。
入口の土は最近何度も踏み固められ、蝶番だけが新しく交換されている。
運河側には舟を係留したばかりの縄の擦れ跡。
壁際には新しい足跡が幾重にも残っていた。
「廃倉庫には見えませんね。」
「ええ。」
レインは小さく頷いた。
「人目につかないよう偽装しています。」
人気がないことを確認すると、二人は裏手へ回り込む。
レインは短剣で窓の留め具を静かに外し、音を立てないよう倉庫の中へ滑り込んだ。
薄暗い室内には乾いた木材の匂いが漂っている。
その奥から、かすかに鉄臭さが鼻をついた。
床には拭き取られた血痕。
壁際には使い終えた薬草。
切り裂かれた包帯。
暖炉の灰へ触れたレインは指先を見つめる。
「まだ完全には冷えていません。」
「昨夜までは誰かがいたということですね。」
さらに奥へ進む。
木箱の陰には保存食と水袋。
その横には、小さな革靴が片方だけ落ちていた。
レインはそれを拾い上げる。
「子どもの靴です。」
「王子殿下でしょうか。」
「その可能性は高いですね。」
室内を一通り見渡したレインは、一枚の地図の前で立ち止まった。
広げられていたのはライゼン市街図。
中央区。
北区。
運河沿い。
いくつかの場所へ印が付けられている。
エレアが覗き込む。
「逃走経路でしょうか。」
レインはゆっくり首を横へ振った。
「違います。」
「ここは隠れ家ではありません。」
部屋全体へ視線を巡らせる。
保存食は最低限。
寝具もない。
長く滞在した形跡も見当たらない。
「一時的な中継地点です。」
エレアも納得したように頷いた。
「追跡を避けるため、一度だけ身を隠した……。」
「ええ。そして、すぐ次の場所へ移っています。」
その瞬間だった。
レインの視線が床の一角で止まる。
周囲の床板は長年の汚れで黒ずんでいる。
だが、一枚だけ色が違った。
しゃがみ込む。
縁には新しい傷。
金具だけが不自然なほど磨かれている。
「エレア。」
短く呼びかける。
エレアも剣へ手を添え、静かに周囲を警戒した。
レインは木箱を静かに脇へ寄せる。
隠されていた鉄の取っ手が姿を現した。
ゆっくりと持ち上げる。
重い床板が軋みながら開き、冷たい空気が足元から吹き上がってきた。
暗闇の奥へ石造りの通路が続いている。
耳を澄ませると、水が流れる音がかすかに響いていた。
「……地下水路。」
ライゼン建国以前から使われている古い地下水路。
王女たちは、この道を使って姿を消した可能性が高かった。




