裏道の出来事
翌日の昼。
世界商談会まで、あと二日。
ライゼンの街は昨日以上の熱気に包まれていた。各国から到着した商隊が荷馬車を連ね、石畳の大通りには商人や冒険者、旅人が絶え間なく行き交っている。露店の呼び込みや大道芸へ向けられる歓声が重なり、街全体が世界商談会の開幕を待ちわびているようだった。
「昨日より人が多いですね。」
フードの奥から辺りを見回したイリシアが、小さく目を輝かせる。
「今日が、主要な商隊の到着が最も多い日ですからね。」
エレアは人の流れを確認しながら答えた。
「明日になれば、各商会も最終準備へ入ります。街をゆっくり歩くなら、今日が最後かもしれません。」
その言葉に、イリシアは嬉しそうに頷いた。
「それなら、昨日とは違う場所も見てみたいです。」
「この人混みでは大変そうですね。」
レインは苦笑しながら前方を見つめる。
中央通りは昨日とは比べものにならないほど混雑していた。荷馬車同士が互いに道を譲りながら進み、商隊に雇われた護衛たちが声を張り上げ、人の流れを整理している。
「一本裏へ入りましょう。」
エレアが自然に提案した。
「裏通りなら、もう少し歩きやすいはずです。」
四人は大通りを離れ、建物の間に延びる裏通りへ足を向けた。
祭りの喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは木箱を運ぶ音や職人たちの掛け声だった。倉庫の裏口では荷物の積み下ろしが続き、帳簿を抱えた商人が忙しなく行き来している。
華やかな表通りとは違い、この場所には商業都市ライゼンを支える日常が広がっていた。
「同じ街でも、こんなに雰囲気が違うんですね。」
イリシアは物珍しそうに辺りを眺める。
「祭りや商談会は表舞台です。」
エレアが穏やかに微笑んだ。
「ですが、その表舞台を支えているのは、こうした場所で働く人々です。」
その時だった。
「助けてくれぇっ!」
切羽詰まった悲鳴が、裏通りへ響き渡った。
四人が同時に振り向く。
細い路地の奥から、一人の男が転ぶように飛び出してきた。五十代ほどの商人で、仕立ての良い服は何か所も切り裂かれ、肩口から血が流れている。
荒い息を繰り返しながら必死に走っていたが、足がもつれ、その場へ倒れ込んだ。
「た、助け――」
言葉の続きを遮るように、黒装束の男が二人、路地の奥から姿を現した。
その少し後ろには、商人の護衛らしい男が二人倒れている。意識は失っているようだが、胸は僅かに上下していた。
「邪魔をするな。」
黒装束の一人が低く告げる。
視線は倒れた商人だけへ向けられていた。
金品を奪うためではない。
最初から、男の命だけを狙っている。
「エレア。」
レインが短く呼ぶ。
「はい。」
エレアはすぐにイリシアをリーヴェの側へ下がらせると、通りの入口へ視線を向けた。
騒ぎに気付き、何人かの商人や職人が遠巻きに様子をうかがっている。
「どなたか、衛兵を呼んでください!」
エレアの声に、一人の若い商人が弾かれたように走り出した。
「分かりました!」
その間にも、黒装束の男が倒れた商人へ向かって地面を蹴る。
振り上げられた剣が落ちるより早く、レインが二人の間へ入った。
「……っ!」
剣を半歩ずれてかわし、その手首を掴む。身体を捻ると、男は勢いを殺せないまま石畳へ叩きつけられた。
もう一人が横から斬り掛かる。
レインは腰の剣を抜き、迫る刃を弾いた。そのまま懐へ踏み込み、柄をみぞおちへ叩き込む。
男が息を詰まらせた直後、首筋へ手刀が落ちた。
先に倒れた男も起き上がろうとしたが、その動きより早くレインが意識を刈り取る。
戦闘は、ほんの数秒で終わった。
「……速い。」
イリシアが思わず呟く。
リーヴェはレインへ一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに周囲への警戒へ戻った。
「お嬢様。まだ仲間がいる可能性があります。」
「はい。」
イリシアも表情を引き締め、素直にリーヴェの傍らへ寄る。
レインは倒れた二人から武器を取り上げ、手早く手足を拘束した。
エレアは負傷した商人の側へ膝をつき、傷口を確認する。
「毒はありません。傷も深くはありませんね。」
淡い光が肩口を包み、流れていた血が徐々に止まっていく。
「これで歩けるはずです。」
「た、助かりました……。」
商人は安堵したように息を吐いた。
レインは路地の奥へ視線を向ける。
倒れている護衛二人は意識を失っているが、命に別状はなさそうだった。黒装束の男たちも拘束してある。間もなく衛兵が来れば、あとは任せられる。
だが、イリシアをここへ長く留めておくわけにはいかない。
騒ぎを聞きつけた人々が、少しずつ集まり始めていた。
「ここを離れましょう。」
レインの言葉に、リーヴェもすぐ頷く。
「その方がよいでしょう。」
負傷した商人が、驚いたように顔を上げた。
「お、お待ちください。私も連れて行っていただけませんか。」
「衛兵がすぐに来ます。」
エレアが答えると、男は不安そうに路地の奥を振り返った。
「襲った者が二人だけとは限りません。衛兵が来るまでここに残れば、別の者に狙われる可能性があります。」
その懸念には理由があった。
黒装束の男たちは、男の命を奪うことだけを目的に動いていた。仲間がいるなら、騒ぎに紛れて再び襲う可能性もある。
エレアは周囲へ目を向けた。
衛兵を呼びに走った商人は、まだ戻っていない。
「宿までは遠くありません。」
レインが短く告げる。
「ひとまず、安全な場所へ移動しましょう。」
「お願いします。」
男は深く頭を下げた。
エレアは集まっていた者たちの中から、先ほどまで荷運びをしていた屈強な男二人へ声を掛ける。
「衛兵が来たら、路地の奥に負傷した護衛が二人いることを伝えてください。襲撃者も拘束してあります。」
「分かった。」
「ここは任せてくれ。」
二人が力強く頷く。
エレアは治療を終えた商人へ肩を貸した。
リーヴェはイリシアを守れる位置につき、周囲へ警戒を続ける。レインは先頭へ立ち、追ってくる者がいないか確認しながら歩き始めた。
こうして五人は裏通りを抜け、グラディウスの宿へ向かった。
人目を避けるため何度か道を変え、背後に不審な気配がないことを確認する。負傷した商人も治癒魔法のおかげで、自分の足で歩くことができていた。
やがて、見慣れた宿の看板が視界へ入る。
レインが扉を開けると、食堂で昼の仕込みをしていたグラディウスが顔を上げた。
「どうした。」
血の付いた服を着た商人と、その肩を支えるエレアを見た瞬間、目つきが変わる。
「……中へ入れ。」
余計なことは聞かなかった。
グラディウスは食堂にいた客へ向き直る。
「悪いが、昼の営業は少し遅らせる。」
常連らしい客たちは事情を察したのか、不満を口にする者はいなかった。それぞれ代金を置き、静かに宿を出ていく。
店内から人がいなくなったのを確認すると、グラディウスは奥にある来客用の部屋を開けた。
「こっちだ。」
商人を椅子へ座らせる。
イリシアとリーヴェも部屋へ入ったが、リーヴェは扉の近くへ立ち、外の気配を警戒していた。
「改めて傷を確認します。」
エレアが肩口へ手を伸ばす。
すでに出血は止まっている。傷も塞がり始めており、治療を続ければ痕もほとんど残らないだろう。
「問題ありません。このまま少し休めば大丈夫です。」
「ありがとうございます。」
男は深く息を吐くと、水差しから注がれた水をゆっくり飲んだ。
張り詰めていた緊張がようやく解けたのか、その手は僅かに震えている。
やがて男は杯を置き、五人へ深々と頭を下げた。
「改めまして、命を助けていただき、本当にありがとうございました。」
「私の名はエドガー。」
「ライゼンで商いをしており、アルヴェシオン商会の傘下に入っています。」
アルヴェシオン商会。
ライゼンを支える三大商会の一角であり、金融と投資を担う巨大商会だった。
もっとも、傘下には数多くの商人や商会が連なっている。エドガーも、その中の一人なのだろう。
レインは軽く会釈を返した。
「レインです。こちらはエレアです。」
そして改めてレインへ目を向ける。
「皆さん、お若いのですね。」
「助けを求めた時は、正直なところ半分諦めていました。ですが、まさかあの二人をあれほど簡単に倒してしまうとは……。」
レインは苦笑しながら肩を竦めた。
「相手が油断していただけです。」
エドガーは一瞬目を丸くしたあと、小さく笑った。
張り詰めていた部屋の空気が、僅かに和らぐ。
しかし、その笑みも長くは続かなかった。
グラディウスが腕を組み、静かに口を開く。
「命を狙われる理由くらいは聞いておきたい。」
部屋が再び静まり返った。
エドガーは困ったように額へ手を当てる。
「それが……私にも、まったく心当たりがないのです。」
「金も荷物も奪われていません。」
「世界商談会の準備を終え、取引先から戻る途中、突然あの二人に襲われました。」
「最初から、私だけを狙っていたのだと思います。」
レインは黙って話を聞いていた。
エドガーの表情にも声にも、不自然なところはない。本当に理由を知らないようだった。
「最近、誰かと揉めたことは?」
エレアが尋ねる。
「ありません。」
「大きな取引は?」
「商談会前ですから取引は増えていますが、どれも普段の範囲です。」
「アルヴェシオン商会の傘下で、何か問題は起きていませんか。」
「少なくとも、私が知る限りでは…。」
質問を重ねても、有力な情報は出てこなかった。
部屋に重い沈黙が流れる。
その時だった。
コンコン――。
宿の玄関を叩く音が、静かな室内まで響いた。
グラディウスは扉へ目を向け、ゆっくりと立ち上がる。
「俺が出よう。」
そう言い残し、部屋を後にした。
残されたレインは、閉じた扉へ静かに視線を向ける。
騒ぎを聞きつけた衛兵か。
それとも、エドガーを追ってきた別の誰かなのか。
まだ誰にも分からなかった。




