祭りへ
こうして四人は、祭りの熱気に包まれたライゼンの街へ足を踏み出した。
世界商談会の開幕まで、あと三日。
それに合わせて催される街の祭りもすでに始まっており、中心部へ近づくにつれて人の流れはさらに増していった。大通りの上には色鮮やかな旗が幾重にも張られ、通りの両側には無数の屋台が軒を連ねている。
焼きたての肉や甘い菓子の香りが風に乗り、楽師の奏でる軽快な音色と、大道芸人へ送られる歓声が絶え間なく響いていた。
「すごい……。」
イリシアは思わず足を止め、小さく息を漏らした。
フードの下から覗く瞳が、目の前に広がる光景を映して輝いている。
「帝都のお祭りも賑やかですが、こんな雰囲気は初めてです。」
「商人の街ならではでしょうね。」
エレアが穏やかに答えた。
「各国から文化や品物が集まります。世界商談会に合わせて開かれる、ライゼンでも最大規模の祭りですから。」
イリシアは何度も頷きながら、忙しなく周囲へ視線を巡らせる。
異国の織物、見慣れない装飾品、旅人向けの道具、色鮮やかな果実。数歩進むたびに新しいものが現れ、その度に足を止めそうになっていた。
そんな様子を見て、レインは自然と笑みを浮かべる。
「楽しそうですね。」
「はい!」
迷いのない返事だった。
その隣を歩くリーヴェは、慣れた様子で小さく息を吐く。
「お嬢様。前だけは見て歩いてください。」
「見ています。」
そう答えた直後、イリシアは横の屋台へ顔を向けたまま通行人へぶつかりそうになり、リーヴェに肩を引かれた。
「……見ていませんね。」
「今のは少しだけです。」
レインとエレアは顔を見合わせ、揃って小さく笑った。
しばらく歩くと、一軒の露店の前でイリシアの足がぴたりと止まる。
店先に並んでいたのは、小型の魔導具だった。
魔法灯、魔力式時計、携帯用の保温箱、小さな浄水器。旅人向けに作られた実用品が、狭い台の上へ所狭しと並べられている。
「少し見てもいいですか?」
「もちろんです。」
レインが頷くと、イリシアは嬉しそうに露店へ近づいた。
早速一つの魔法灯を手に取り、外装と底面へ刻まれた術式を見比べる。
「魔力効率を上げるために、魔法陣を二重にしているんですね。」
店主は驚いたように目を丸くした。
「お嬢ちゃん、詳しいね。」
「まだ勉強中です。」
そう答えながらも、質問は止まらない。
使用している素材。
魔法陣の重ね方。
加工に必要な温度。
連続使用した場合の耐久性。
店主も最初こそ驚いていたが、やがて楽しそうに説明を始めた。
少し離れた場所から見守っていたレインが苦笑する。
「本当に好きなんですね。」
「魔法の話になると、いつもあの調子です。」
リーヴェはすっかり慣れているようだった。
「家庭教師として教える立場ではありますが、こちらが驚かされることも少なくありません。」
「十三歳とは思えませんね。」
エレアが静かに呟く。
「魔法に関しては、私もそう思います。」
リーヴェの視線が、楽しそうに店主と話すイリシアへ向けられる。
「ですが、それ以外は年相応ですよ。」
その口調には、教師としてだけではない温かさが滲んでいた。
魔導具の構造を一通り確かめ、店主へ何度も礼を告げたイリシアが戻ってくる。
「お待たせしました。」
「ずいぶん楽しそうでしたね。」
レインが言うと、イリシアは嬉しそうに頷いた。
「はい。帝国では見たことのない組み方でした。魔法陣そのものは簡単なのに、二つを少しずらして重ねることで――」
「お嬢様。」
リーヴェが静かに遮る。
「そのお話を始めると、しばらく終わりません。」
「まだ少ししか話していません。」
「その少しが長いのです。」
不満そうに頬を膨らませるイリシアを見て、再び笑いが生まれた。
四人はそのまま、祭りの中心となる広場へ向かった。
ちょうど大道芸が始まるところだったらしい。軽快な音楽に合わせ、数人の芸人たちが剣や輪を巧みに操りながら、次々と曲芸を披露している。
剣を宙へ放り投げ、背中越しに受け止める。
燃え盛る輪の間を飛び越える。
観客から大きな歓声が上がるたび、イリシアも目を輝かせながら両手を叩いた。
「すごいです!」
身を乗り出すように見つめる姿は、帝国公爵家の令嬢でも、百年に一人と称される天才魔導師でもない。
祭りを心から楽しむ、十三歳の少女そのものだった。
大道芸を見終える頃、近くの屋台から香ばしい匂いが漂ってくる。
その直後、イリシアのお腹が小さく鳴った。
「……。」
イリシアはゆっくりと俯いた。
三人は何も言わなかったが、リーヴェの口元だけが僅かに緩む。
「昼食にしましょうか。」
レインの提案に、イリシアは少し頬を赤くしながら頷いた。
「お願いします。」
四人は近くの屋台で、焼きたての肉を挟んだパンと串焼きを買い、広場の端に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
イリシアはパンを一口食べるなり、ぱっと表情を明るくする。
「美味しいです!」
「口に合いましたか。」
「はい。帝都とは味付けが全然違います。」
嬉しそうに答えるイリシアを見て、屋台の主人まで満足そうに笑った。
「祭りの時期は、いつもより良い肉を仕入れてるからな!」
「また食べに来ます。」
元気よく答えると、主人はさらに機嫌よく笑った。
レインもパンを口へ運び、素直に頷く。
「確かに美味しいですね。」
「ライゼンには各国の料理人も集まりますから。」
エレアが周囲の屋台へ視線を向ける。
「同じ材料でも、店によって味付けがまったく違います。」
「だから、こんなに種類が多いんですね。」
イリシアは感心したように周囲を見回した。
穏やかな時間だった。
護衛任務であることを忘れてしまいそうなほど、祭りは平和で、人々の笑顔に満ちている。
その時だった。
リーヴェの手が、不自然にならない程度に止まった。
ほとんど同時に、エレアの視線が僅かに動く。
レインもパンを持つ手を止めず、周囲へ意識だけを広げた。
三人の空気が変わったことに気付き、イリシアも笑みを収める。遅れて周囲へ薄く魔力を広げると、小さく首を傾げた。
「……誰かに見られていますね。」
祭りの喧騒へ完全に溶け込んだ視線だった。
敵意はない。
殺気も感じない。
だが、確かにこちらを観察している。
レインは何事もないように周囲へ目を向けた。
祭りを楽しむ家族連れ。
酒を飲む冒険者。
商談を続ける商人。
誰もが自然に振る舞っており、露骨にこちらを見ている者はいない。
「悪意は感じません。」
イリシアが声を落とす。
「何かを確かめているような視線です。」
「監視でしょうね。」
エレアも周囲へ視線だけを巡らせた。
リーヴェが静かに頷く。
「敵意がない以上、ここで動けば相手を警戒させるだけです。」
「今は放っておきましょう。」
レインの判断に、三人も異論を示さなかった。
「せっかくのお祭りですから。」
イリシアが少しだけ笑顔を取り戻す。
四人はそのまま食事を終え、再び祭りの中へ戻った。
屋台を覗き、珍しい雑貨を見て回り、大道芸人へ惜しみない拍手を送る。イリシアは目にするものすべてが新鮮らしく、あちらこちらで足を止めては瞳を輝かせていた。
レインも自然と彼女の歩幅へ合わせる。
少し後ろを歩くエレアとリーヴェは、周囲へ注意を向けながらも、前を行く二人を穏やかに見守っていた。
「楽しそうですね。」
エレアが静かに呟く。
「ええ。」
リーヴェも僅かに表情を和らげた。
「帝都では、あそこまで自由に街を歩ける機会はほとんどありません。」
「公爵家ともなれば、仕方がありませんね。」
「本人も分かっているので、普段は我慢しています。」
前を歩くイリシアは、珍しい果物を並べた屋台の前で立ち止まり、レインへ何かを熱心に尋ねている。
リーヴェはその姿を見つめ、小さく微笑んだ。
「今日は少しくらい、自由に楽しんでもらいたいものです。」
それからも四人は祭りを見て回り、夕暮れが近づく頃になって宿への帰路についた。
宿へ戻ると、食堂では主人のグラディウスが腕まくりをしながら、大きな鍋をかき混ぜていた。
四人の姿を認めると、僅かに口元を緩める。
「ちょうどいい。今日は郷土料理だ。」
湯気の立つ皿が次々と並べられる。
香草と香辛料で煮込んだ肉料理。
焼きたての黒パン。
野菜をふんだんに使った濃厚な煮込み。
魚介の出汁が利いた温かなスープ。
食卓へ料理が揃うと、イリシアは期待を隠せない様子で両手を合わせた。
「いただきます。」
最初にスープを口へ運び、その瞬間に目を丸くする。
「美味しい……。」
レインも続けて口へ運び、素直に頷いた。
「これは美味しいですね。」
「祭りの時期は、客に合わせて少し味を変える。」
グラディウスは鍋へ視線を戻したまま答える。
「国が違えば、好まれる味も違うからな。」
「十分すぎるほど美味しいです。」
イリシアが笑顔でそう告げると、グラディウスは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
食事を終え、それぞれが部屋へ戻る。
祭りで歩き回った疲れもあり、宿全体が少しずつ静けさに包まれていった頃、レインは窓の外へ目を向けた。
「……まだいますね。」
「ええ。」
エレアも静かに立ち上がる。
宿の周囲を見張るような気配が一つ。
祭りで感じたものと同じだった。
「少し話を聞いてきます。」
「私も行きます。」
二人は外套を羽織り、音もなく宿を抜け出した。
夜の路地は静まり返っている。
二人はわざと人気のない裏路地へ入り、周囲に人がいなくなったところで足を緩めた。
屋根の上に潜んでいた人影が、追跡を続けようと身を動かす。
その瞬間、レインとエレアは左右へ分かれた。
「なっ――」
人影が逃げようとした時には、すでに遅かった。
レインが片腕を取り、エレアが首元へ手を添える。抵抗すれば即座に動きを封じられる位置だった。
「静かに。」
エレアが低く告げる。
男は僅かに身体を強張らせたあと、ゆっくりと両手を上げた。
「敵ではありません。」
「では、なぜ一日中こちらを監視していたのですか。」
レインが静かに問い掛ける。
男は答えない。
その時、路地の入口から足音が近づいてきた。
姿を現したのはリーヴェだった。
その後ろから、イリシアも顔を覗かせている。
リーヴェは一度だけ目を閉じ、額へ手を当てた。
「お嬢様。部屋でお待ちくださいと申し上げたはずですが。」
「でも、私を見ていた方ですよね?」
「だからこそ、お待ちいただきたかったのです。」
「気になって眠れません。」
悪びれる様子のない返答に、リーヴェは深いため息をついた。
さらに宿の入口が開き、グラディウスも腕を組みながら外へ出てくる。
押さえられている男を一目見ると、僅かに眉を寄せた。
「……やはり、公爵家の人間か。」
男の表情が僅かに変わる。
それを見たリーヴェも、呆れたように息を吐いた。
「正直に答えなさい。」
短い沈黙のあと、男は観念したように肩の力を抜いた。
「……公爵家の者です。」
「旦那様から、イリシア様がライゼンへ到着されたあとも、決して目を離すなと命じられました。」
その一言で事情はすべて理解できた。
エレアは呆れたように小さく息を吐き、グラディウスも肩を竦める。
「過保護にも程がある。」
リーヴェはこめかみを押さえた。
「……またですか。」
レインが男の腕を放しながら尋ねる。
「以前にも?」
「イリシア様が遠出をされる度に、旦那様は暗部を送り込もうとなさるのです。」
リーヴェは疲れたような笑みを浮かべた。
「見つける度にお引き取りいただいています。」
「毎回見つかっているのに、お父様も諦めませんね。」
イリシアは驚くこともなく、慣れた様子で男を見つめていた。
「今回も、リーヴェには内緒にしろと言われたのですか?」
男は気まずそうに視線を逸らす。
「……はい。」
「やっぱり。」
イリシアは小さくため息をついた。
しかし、父親が本気で自分を心配していることは分かっているのだろう。怒るというより、困ったような表情だった。
少し考えたあと、イリシアは男へ向かって微笑む。
「帰ったら、お父様へ伝えてください。」
男は嫌な予感を覚えたように顔を上げた。
「『また同じことをしたら、留学先から一か月お手紙を書きません』と。」
男の顔色が一瞬で変わる。
「そ、それだけは勘弁してください!」
悲痛な叫びが夜の路地へ響いた。
おそらく、その言葉を伝えれば、公爵がどのような反応をするか容易に想像できるのだろう。
レインとエレア、グラディウスは顔を見合わせる。
リーヴェは深いため息をつき、イリシアだけが満足そうに頷いていた。




