お忍び
レインはヴァルゼインを真っ直ぐ見つめた。
「その方は、どちらの国の方ですか。」
ヴァルゼインは酒杯をゆっくりと持ち上げ、中の酒を一口だけ口へ含む。
しばらく香りを味わうように目を閉じ、小さく息を吐いてから静かに答えた。
「ザルディア帝国だ。」
その国名が告げられた瞬間、室内の空気が僅かに引き締まる。
西大陸六大大国。
軍事力だけなら他国を一歩抜き、長い歴史の中で幾度となく周辺諸国を飲み込みながら発展してきた巨大帝国。広大な領土と莫大な人口、精強な軍団、そして数多くの超越者を擁するその国は、各国が常に動向を注視する存在だった。
ヴァルゼインは二人の反応を見届けるように頷く。
「相手は帝国公爵家の三女。まだ十二歳だ。」
「だが、その歳ですでに超越者へ手が届くと言われている。」
「帝国では百年に一人の天才魔導師と呼ばれ、将来は化け物級上位超越者になると期待されている娘だ。」
レインは僅かに目を細めた。
十二歳。
その年齢で、そこまで評価される人物が存在するとは想像もしていなかった。
エレアも静かに口を開く。
「その噂なら私も耳にしています。帝国だけでなく、西大陸各国でも話題になっている人物ですね。」
「ああ。」
ヴァルゼインは笑みを浮かべた。
「俺も最初は尾ひれの付いた噂だと思っていた。」
「だが、どうやら全部本当らしい。」
そう言うと机の上へ広げられていた西部方面の地図を手前へ引き寄せ、大きな指で北側をゆっくりとなぞっていく。
「もっとも、その娘の目的地はライゼンじゃない。」
指先はさらに北東へ移動した。
「エルディオン連邦。」
「四つの加盟国によって成り立つ六大大国だ。」
ヴァルゼインは地図を指しながら続ける。
「ヴァルハイン共和国は連邦の中心。港湾と外交を担い、連邦議会も置かれている。」
「クロムベルク共和国は金融と工業。世界中の商人があそこの銀行と取引していると言われるほどだ。」
「グランデル共和国は農業と鉱山。食料も資源も連邦を支えている。」
そして最後に、一番北東の国へ指を止めた。
「そして、アストレア魔導公国。」
その名を口にした瞬間だった。
ヴァルゼインの表情が僅かに変わる。
暖炉の火が揺れ、室内へ張り詰めた空気が流れた。
歴戦の戦場を思い出した者だけが見せる、ほんの一瞬の緊張。
グラディウスは腕を組んだまま黙って見つめている。
数秒の沈黙が流れたあと、ヴァルゼインは小さく息を吐き、苦笑した。
「……失礼した。」
「やはり、あの国を語ると昔を思い出してしまう。」
グラディウスが口元を僅かに緩める。
「歳を取っても変わらんな。」
「仕方あるまい。」
ヴァルゼインは肩を竦め、再び地図へ視線を落とした。
「アストレア魔導公国は世界最高峰の魔法学術国家だ。」
「世界中から優秀な魔導師が集まり、最高峰の魔法学院で学ぶ。」
「魔法という一点だけなら、あの国に肩を並べられる国は存在しない。」
その声には、世界を見てきた男だからこその確信が滲んでいた。
「その魔法学院が、帝国の天才を正式に迎え入れることを決めた。」
「長期留学だ。」
「試験もない。学院側から迎え入れた。」
レインは静かに頷く。
「つまり、ライゼンは目的地ではなく途中ということですね。」
「その通りだ。」
ヴァルゼインは満足そうに笑った。
「アルディア王国での滞在を終え、アストレア魔導公国へ向かう途中、このライゼンへ立ち寄られた。」
「そして、世界商談会の開催が近かった。」
「せっかくならライゼンも見てみたい――本人がそう希望されたそうだ。」
「だから数日だけ、この街へ滞在されている。」
そこまで話すと、ヴァルゼインは二人を真っ直ぐ見据えた。
「だが、世界商談会前のライゼンは一年で最も神経を使う時期でもある。」
「世界中から商人が集まり、各国の護衛、情報機関、そして裏社会の連中まで一斉に動き始める。」
「表では商談が行われ、裏では情報戦と駆け引きが繰り返される。」
静かな口調だった。
だが、その一言一言に重みがある。
「そんな時期に、ザルディア帝国公爵家の令嬢がライゼンへ滞在していると知れればどうなる。」
「興味本位で近づく者もいる。」
「利用しようと考える者もいる。」
「誘拐を企む愚か者や、実力を試そうとする馬鹿まで現れるだろう。」
ヴァルゼインは苦笑を浮かべた。
「だから、お忍びだ。」
「表向きは、アストレア魔導公国へ留学する一人の少女。」
「それ以上の情報は、限られた者しか知らない。」
部屋へ静かな空気が流れる。
「本人を守るためだけじゃない。」
「帝国とエルディオン連邦、そしてライゼン自由都市連合。」
「三者の均衡を崩さないためでもある。」
ヴァルゼインはゆっくりと立ち上がり、レインとエレアを真っ直ぐ見据えた。
「ガストンが認め、グラドがここまで連れてきた。」
「ならば俺も、お前たちを信じよう。」
一拍置いて続ける。
「この依頼は、ただ護衛をすればいい仕事じゃない。」
「その方の存在そのものを守る依頼だ。」
「数日でいい。」
「その方の護衛を、引き受けてくれないか。」




