物流の王と呼ばれる男――ヴァルゼイン・ローグレイス
夕食を終え、食堂の賑わいも少しずつ落ち着き始めた頃だった。
レインが湯気の立つ茶を口へ運んでいると、食器を片付けていた主人が静かに歩み寄ってくる。
「少し付き合ってくれ。」
それだけを告げると、主人は立ち止まった。
「依頼ですか。」
レインが尋ねると、主人は短く頷く。
「ああ。正確には、人に会ってもらいたい。」
「どなたですか。」
「着けば分かる。」
詳しい説明はしない。
それでも主人の落ち着いた様子から、危険が差し迫っている気配は感じられなかった。
レインはエレアへ視線を向ける。
「どうしますか。」
「行きましょう。」
迷いのない返答だった。
二人は席を立ち、主人の後を追って宿を出る。
夜のライゼンは昼間とは違う表情を見せていた。
酒場から漏れる笑い声や演奏が石畳へ響き、人通りもまだ多い。しかし主人は賑やかな通りを避けるように裏道を選び、一度も立ち止まることなく歩き続けた。
やがて街並みが少しずつ変わり始める。
庶民向けの店や酒場は姿を消し、広い敷地を持つ屋敷が目立つようになった。整備された石畳の両脇には街路樹が並び、巡回する衛兵や私兵の姿も一気に増えていく。
「北区ですね。」
エレアが静かに呟く。
「富裕層街です。」
レインも周囲を見回した。
ライゼンでも、ごく限られた富豪や有力商人だけが屋敷を構える地区だった。
さらに十分ほど歩いたところで、主人が足を止める。
目の前には高い石塀に囲まれた広大な屋敷が建っていた。
門だけでも普通の屋敷一軒分はありそうな大きさで、その向こうには美しく手入れされた庭園が広がっている。夜にもかかわらず敷地内は魔導灯で明るく照らされ、多くの警備兵が巡回していた。
レインは思わず息を呑む。
「これは……。」
エレアも小さく目を見開いた。
「ライゼンでも指折りの屋敷ですね。」
主人は何も言わず正門へ向かう。
門番が主人の姿を認めた瞬間、表情を和らげた。
「お待ちしておりました。」
門番は一礼すると、迷うことなく門を開く。
レインとエレアにも視線を向けたが、制止することはなかった。
主人が連れてきた客であることを理解しているのだろう。
敷地へ入ると、庭師や使用人たちが主人へ軽く頭を下げる。
「こんばんは。」
「お疲れさまです!亅
腰を垂直に曲げるた。
それでも、その応対から主人がこの屋敷と浅くない関係にあることは十分に伝わってきた。
レインは無言のまま、その背中を見つめる。
宿で無愛想に振る舞う男が、ここではまるで昔から出入りしている家族のように迎えられている。
屋敷へ入ると、中はさらに壮観だった。
赤い絨毯が真っ直ぐ奥まで敷かれ、壁には絵画や美術品が飾られている。吹き抜けの広間では使用人たちが忙しく行き交っていたが、主人が歩くたびに会釈を交わしていく。
主人は迷いなく屋敷の最奥へ進み、重厚な両開きの扉の前で足を止めた。
二度、軽く扉を叩く。
「連れてきた。」
間もなく、部屋の中から落ち着いた声が返ってきた。
「入りたまえ。」
主人が扉を開く。
広い執務室の中央には重厚な机が置かれ、その奥へ一人の男が腰を下ろしていた。
年齢は六十前後。
鍛え上げられた体躯は年齢を感じさせず、顔には幾筋もの古傷が刻まれている。その鋭い眼光は、歴戦の戦士を思わせる迫力を宿していた。
男は主人を見ると、小さく笑みを浮かべる。
「世話を掛けたな。」
「気にするな。」
主人は短く答えるだけだった。
そのやり取りだけで、二人が長い付き合いであることが伝わってくる。
続いて男はレインとエレアへ視線を向け、ゆっくりと立ち上がった。
「初めまして。」
低く落ち着いた声が部屋へ響く。
「私はヴァルゼイン・ローグレイス。」
「物流を生業とする、一介の商人だ。」
その名を聞いた瞬間、レインとエレアは一瞬だけ視線を交わし、改めて目の前の男へ向き直った。
ライゼン自由都市連合を支える三大商人。
その一角が、静かな笑みを浮かべながら二人を迎えていた。




