幽霊
夜の東区は静まり返っていた。
昼間は荷車と商人で溢れていた通りも、今は魔導灯の淡い明かりが石畳を照らすだけだ。人影はほとんどなく、時折見回りの衛兵が通り過ぎる音だけが夜の街へ響いている。
そんな街並みを、レインとエレアは屋根伝いに音もなく進んでいた。
やがて二人は東区外れに建つ大きな倉庫を見下ろせる位置で足を止める。
昼間、捕らえた運び屋が口にしていた倉庫。
確証はない。
だからこそ、自分たちの目で確かめる必要があった。
倉庫の入口には武装した男が二人。その周囲にも数人が距離を取って配置され、裏口にも見張りが立っている。
昼間の盗品集積所とは比べものにならない警戒ぶりだった。
「警備が増えていますね」
「昼間の件が伝わったのでしょう」
エレアが小さく答えた、その時だった。
石畳を車輪が軋む音が近づいてくる。
一台の荷車が倉庫へ入り、荷台に積まれた木箱が次々と運び込まれていく。
さらに少し遅れて、黒塗りの馬車がゆっくりと姿を現した。
四人の護衛に囲まれて降りてきたのは、四十代半ばほどの男だった。
上質な服を纏い、一見すれば成功した商人にしか見えない。
しかし倉庫へ足を踏み入れた瞬間、その表情から笑みは消えた。
「旦那、昼間の件ですが……」
部下の一人が駆け寄る。
「聞いている」
男は短く遮り、積み上げられた木箱を見渡した。
「捕まったのは運び屋だけです」
「それは関係ない」
低い声が倉庫へ響く。
「一度疑われた場所は使えん」
部下たちの顔色が変わる。
「ここは捨てる」
「盗品はどうします」
「持ち出せる物だけ運べ。残りは燃やせ」
その命令と同時に数人の男が奥へ駆け込み、大きな樽を転がしてきた。
栓を抜いた瞬間、夜風に油の臭いが広がる。
「証拠隠滅ですね」
エレアが静かに呟く。
レインも頷いた。
「これ以上待つ理由はありません」
「ええ。証拠を燃やされる前に止めましょう」
二人は同時に動いた。
屋根から飛び降りたレインの姿が夜へ溶ける。
入口で警戒していた見張りが僅かな気配に振り返った。
だが、そこには誰もいない。
「……?」
次の瞬間、その男の意識は途切れ、音もなく地面へ崩れ落ちた。
異変に気付いた隣の男が声を上げようとした瞬間、その首筋へ鋭い手刀が落ちる。
二人目も静かに倒れた。
「誰だ!」
護衛たちが一斉に武器を抜く。
しかし敵は見えない。
屋根を見ても。
路地を見ても。
暗闇を睨んでも。
誰一人としてレインを捉えられなかった。
「右だ!」
叫び声と同時に剣が振るわれる。
空を切る。
その護衛の背後へ、すでにレインは回り込んでいた。
首筋へ一撃。
男はその場へ崩れ落ちる。
「速すぎる!」
別の護衛が魔法を放とうとした。
だが詠唱を終える前に腹部へ衝撃を受け、そのまま壁へ叩きつけられた。
残る護衛たちは円陣を組み、互いの死角を補う。
決して素人ではない。
それでも相手が悪すぎた。
「どこだ!」
返事はない。
代わりに、一人。
また一人と静かに倒れていく。
「敵が……見えない……」
誰かが震える声を漏らした。
その言葉が護衛たちの恐怖を一気に広げる。
姿の見えない敵。
仲間だけが減っていく。
まるで夜そのものが襲いかかってきているようだった。
倉庫の奥で様子を見ていた商人の顔色が変わる。
「荷は捨てろ!」
怒鳴るように叫ぶ。
「火を放て!」
だが、その命令は実行されなかった。
倉庫全体が淡い光に包まれたからだ。
外壁に沿って幾何学模様の魔法陣が浮かび上がり、建物全体を静かに覆っていく。
エレアが屋根の上で術式を完成させたのだ。
「遮音結界と封鎖術式を展開しました」
通信魔法越しに落ち着いた声が届く。
「これで外へは誰も逃げられません。音も漏れません」
「了解です」
レインが短く返す。
逃げ場を失った護衛たちは最後の抵抗を試みた。
一人が雄叫びを上げながら斬り掛かる。
しかし剣は空を切り、その直後、背後から首筋へ一撃を受けて崩れ落ちた。
最後まで立っていた護衛も膝をつき、武器を取り落とす。
倉庫の中に残ったのは、青ざめた商人ただ一人だった。
レインはゆっくりと姿を現し、その男の前で足を止める。
「さて――少し話を聞かせてもらいましょうか」




