憧れ
太陽が西へ傾き始めた頃、一年Bクラスはようやく演習地へ到着した。
そこは深い森の中に設けられた、広い空き地だった。
周囲には背の高い木々が立ち並び、見渡せる範囲は決して広くない。王都の近郊とはいえ、街道から離れれば完全な野外であることに変わりはなかった。
長い行軍を終えた生徒たちは、演習地へ足を踏み入れるなり、一斉に背負い袋を地面へ降ろした。
「着いたぁ……」
ロイが、今にもその場へ倒れ込みそうな声を漏らす。
それも無理はなかった。
朝から続いた行軍は、生徒たちが想像していた以上に厳しいものだった。三日分の装備を背負って歩き続け、途中からは整備された街道を外れ、足場の悪い林道を進んできたのだ。
足は鉛のように重く、背負い袋の紐が食い込んだ肩も痛む。
何人かの生徒は、荷物を降ろした勢いのまま地面へ座り込もうとしていた。
「休憩は後だ」
鋭い声が飛び、生徒たちの動きが止まる。
バルトは疲れ切った一年生たちを見渡すと、何の感慨も見せずに告げた。
「これより野営地を設営する」
露骨なため息が、あちこちから漏れた。
ようやく歩き終えたと思った直後である。せめて少しくらい休ませてほしいという気持ちは、誰もが同じだった。
しかし、バルトはまるで意に介さない。
「寝床も、焚き火も、夜間の見張り場所も自分たちで用意しろ。騎士団は、宿屋に泊まりながら戦争をするわけではない」
それだけ言い残すと、バルトは他の教官たちと共に森の奥へ歩いていった。
残された生徒たちは、遠ざかっていく背中を呆然と見送る。
あとは自分たちで考えて動け。
言葉にされなくとも、その意味は誰にでも分かった。
だが、理解したからといって、すぐに動き出せるわけではない。
誰が何をするのか。
そもそも何から始めるべきなのか。
疲労で頭の回転も鈍っている。全員が互いの顔を窺うばかりで、誰も最初の一歩を踏み出そうとはしなかった。
空き地の中央に、気まずい沈黙が落ちる。
「まずは、周辺の確認から始めよう」
その沈黙を破ったのは、アルベルトだった。
声を張り上げたわけではない。
命令するような口調でもなかった。
それでも、散らばっていた生徒たちの視線は自然と彼へ集まった。
「このまま設営を始めても、近くに獣道や足場の悪い場所があれば危険だ。五人ほどで周囲を見てきてくれないか」
アルベルトが近くにいた生徒たちへ声を掛けると、指名された者たちは迷うことなく頷いた。
「分かった。北側を見てくる」
「俺たちは東を確認する」
「暗くなる前に戻ろう」
五人が二手に分かれて森へ入っていく。
それを見届けると、アルベルトはすぐに残った生徒たちへ向き直った。
「残りは設営の準備を進めよう。薪を集める者と、荷馬車からテントを降ろす者に分かれてくれ。物資を出し入れするから、荷馬車の周囲には荷物を置かないように」
止まっていた空気が動き始めた。
一人が薪を拾うために歩き出すと、その近くにいた生徒も後へ続く。荷馬車へ向かう者が現れれば、別の生徒たちも荷台からテントや道具を降ろし始めた。
「こっち、二人ほど手を貸してくれ!」
「薪はどこに集める?」
「まだ場所は決めてない。とりあえず荷馬車から離しておこう」
先ほどまで立ち尽くしていた生徒たちが、次々と役割を見つけて動いていく。
レインも荷馬車へ向かい、テントを張るための資材を抱えた。
作業を進めながら、アルベルトの様子へ視線を向ける。
彼が口にした内容そのものは、決して特別なものではない。
周囲の安全を確認し、寝床と火を用意する。荷馬車の通り道を空けておくのも、落ち着いて考えれば誰にでも分かることだ。
だが、今この場で重要なのは、正しい答えを知っていることではなかった。
人を動かせるかどうかだ。
誰も反発しない。
誰も指示の意味を問い返さない。
疲れ切り、何をすればいいのか分からず立ち尽くしていた生徒たちが、アルベルトの言葉一つで動き始めた。
それは、ただ家柄が良いだけでは得られないものだった。
普段から周囲をよく見て、必要な時に必要な言葉を掛けてきたからこそ、皆も自然と彼の言葉を受け入れているのだろう。
やがて、周辺の確認へ向かった生徒たちが戻ってきた。
「北側に獣道があった。かなり古いけど、夜は近づかない方がいいと思う」
「東側には少し深い窪地がある。暗くなったら足を取られそうだ」
「南は水はけが悪い。テントを張るなら西側の方がいい」
報告を聞いたアルベルトは、周囲の地形を確かめながら短く考えた。
「分かった。荷馬車は中央へ置こう。テントは西側を中心に並べて、南側は避ける。焚き火は全体を照らせる場所に作って、獣道のある北側には見張りを置ける場所を確保しよう」
方針が決まると、そこからの作業は早かった。
生徒たちは交代しながら薪を集め、荷馬車からテントや水樽、食料を運び出していく。
もちろん、全てが順調に進んだわけではない。
「おい、この杭、全然入らないぞ」
「そこは地面が固いんじゃないか? 少し横へずらせ」
「縄の結び方、これで合ってるか?」
「たぶん違う。さっきから屋根が傾いてる」
杭を打つ場所を間違えて最初からやり直す者もいれば、縄が緩んでテントを倒してしまう者もいる。
疲労も重なり、時折不満の声も上がった。
それでも、困っている者がいれば近くの誰かが手を貸した。一人では持ち上がらない物は数人で運び、慣れている者が縄の結び方を教える。
少しずつではあるが、空き地の景色は確実に変わっていった。
一時間も経たないうちに、何もなかった森の空き地にはテントが並び、荷馬車から降ろされた物資も整理され、一晩を過ごすための野営地が形を整えていた。
中央に作られた焚き火へ火が入る。
乾いた薪が小さく爆ぜ、赤い炎が夕暮れの空き地を照らし始めた。
ようやく作業を終えた生徒たちは、焚き火の周囲やテントの前へ次々と腰を下ろしていく。
「もう指一本動かしたくない……」
ロイは地面に座り込むと、背負い袋へ背中を預けた。
「夕食の準備が残ってるけどな」
隣に腰を下ろしたガレンが、淡々と現実を突きつける。
「今だけは聞かなかったことにさせてくれ」
「腹が減ったら勝手に動くだろ」
「それはそうだけどさ……」
力のない二人の会話に、近くの生徒たちから笑いが漏れた。
朝から歩き続けた疲労は大きい。
肩も足も痛み、できることなら今すぐ横になりたい。
それでも、自分たちの手で作り上げた野営地を眺めていると、不思議と悪い気分はしなかった。
先ほどまでは何もなかった場所が、今では人が休み、夜を越すための拠点になっている。
「本当に寝られる場所になったな……」
ロイが焚き火を眺めながら呟く。
「途中までは、暗くなっても完成しないと思ったけどな」
「それは俺も思った」
レインは二人の会話を聞きながら、少し離れた場所にいるアルベルトへ視線を向けた。
アルベルトはまだ休んでいなかった。
傾いているテントを見つければ近くの生徒へ声を掛け、薪の量が足りない場所があれば運ぶ人数を増やしている。水樽や食料の位置も確認し、夜になってから困らないよう一つずつ見て回っていた。
自分が指示を出したからといって、他人へ作業を任せきりにするわけでもない。
誰よりも周囲を見て、自分にできる仕事を探している。
剣や魔法の強さだけでは、集団を動かすことはできない。
誰が困っているのかを見つけ、必要な役割を割り振り、全員が迷わず動ける形を作る。
それもまた、一つの才能なのだろう。
少なくとも今この場所で、最も騎士らしく振る舞っているのは、間違いなくアルベルトだった。




