ガストン
翌朝。
窓から差し込む朝日で、レインは静かに目を覚ました。
長旅の疲れが残っていたのか、昨夜は久しぶりに深く眠ることができた。身支度を整えた頃にはエレアも準備を終えており、二人はそろって一階へ降りる。
食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、宿泊客たちはそれぞれ静かに朝食を取っていた。帳簿を広げる商人や、今日受ける依頼について話し合う冒険者の姿もある。昨夜と大きく変わらない光景だったが、宿全体はすでに新しい一日へ向けて動き始めていた。
主人は厨房の奥から二人を見つけると、軽く顎を引いた。
「おはよう」
「おはようございます」
交わした言葉はそれだけだった。
間もなく運ばれてきた朝食は、焼きたてのパンと温かなスープ、卵料理に簡単なサラダという素朴なものだった。だが味はよく、長旅で疲れた身体へ自然と力が戻ってくる。
食事を終えた二人が受付へ向かうと、主人が部屋の鍵を差し出した。
「出掛けるのか」
「はい。ベルグ商会へ挨拶に伺った後、冒険者ギルドへ向かう予定です」
「そうか」
主人はそれ以上尋ねず、再び帳簿へ目を落とす。
「行ってきます」
レインが軽く頭を下げると、主人は顔を上げないまま片手を上げた。
どうやら、それがこの宿なりの見送りらしい。
二人は宿を出て、朝のライゼンへ足を踏み出した。
大通りでは商隊の荷馬車が途切れることなく行き交い、露店では開店の準備が進んでいる。西部各国の訛りに混じり、レインには聞き覚えのない言葉まで飛び交っていた。
「まずはガストンさんですね」
「ええ。西部方面でも屈指の大商会です。名前は以前から耳にしていましたが、お会いするのは私も初めてです」
「ナルさんのおかげですね」
「その縁には感謝しなければなりません」
二人は人の流れに乗り、ベルグ商会本店へ向かった。
宿を出て十分ほど歩くと、通りを行き交う人や荷馬車の数はさらに増えていく。荷役たちが絶え間なく荷を運び、商人たちは道端で立ち止まって商談を始めていた。
レインは周囲を見回す。
「朝からこの賑わいですか」
「まだ少ない方でしょうね。世界商談会が近づけば、この通りも人で埋まります」
やがて二人は、大通りの一角で足を止めた。
目の前に建つのは、周囲の商会とは比べものにならないほど大きな石造りの建物だった。正面にはベルグ商会の紋章が掲げられ、左右には広大な荷捌き場が設けられている。
何十台もの荷馬車が並び、荷役たちが次々と積み荷を運び込む。その間を帳簿を抱えた商人たちが行き交い、建物全体が一つの大きな組織として動いていた。
「想像以上ですね」
「西部方面を代表する商会です。これだけの規模でも不思議ではありません」
入口へ近づくと、男性職員が二人の前へ歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「ガストン会頭へお取り次ぎをお願いしたいのですが」
「お約束はございますか」
「ありません」
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「アルディア王国から参りました、レインと申します」
職員はわずかに目を見開いた。
「……少々お待ちください」
一礼すると、足早に建物の奥へ消えていく。
レインはその背中を見送り、首を傾げた。
「名前だけで通じたようですね」
「ナルさんから話が伝わっていたのかもしれません」
ほどなくして、先ほどの職員が戻ってきた。
「会頭がお待ちです。こちらへどうぞ」
二人が案内されたのは、商会の奥にある応接区画だった。
途中ですれ違う商人たちは皆忙しそうに動いているが、慌ただしさの中にも秩序がある。誰もが自分の役割を理解し、余計な動きをしていない。
やがて職員が、重厚な扉の前で立ち止まった。
「会頭、お連れしました」
中から聞こえてきたのは、レインにも覚えのある穏やかな声だった。
「入ってもらえ」
レインの表情が自然と和らぐ。
半年前、ナルに連れられて初めて会った人物。
西部方面を代表する大商会、ベルグ商会会頭ガストンとの再会だった。
「失礼します」
レインとエレアが部屋へ入ると、ガストンは机の上に広げていた書類から顔を上げた。
一瞬だけ目を細め、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「久しぶりだな、レイン」
「お久しぶりです」
レインが頭を下げると、ガストンはゆっくりと立ち上がった。
「元気そうで何よりだ。ナルから、お前さんが無事に王都へ戻ったことは聞いておった」
「おかげさまで」
「それで、今回はライゼンか」
問い掛けというより、確認だった。
レインはエレアと視線を交わしてから答える。
「はい。国の任務です」
それ以上は何も語らない。
ガストンも、理由や目的を尋ねることはなかった。
「そうか。なら、詳しいことは聞かん」
椅子へ腰を下ろし、いつもの調子で続ける。
「商人は余計なことを知りすぎると、長生きできんからな」
レインは思わず笑みを浮かべた。
「変わりませんね」
「そう簡単に変わっていては、商売など続けられん」
ガストンも笑い、二人へ椅子を勧めた。
「だが、一つだけ言わせてもらおう。何か困ったことがあれば、ベルグ商会を頼れ」
レインは姿勢を正す。
「表立って国へ手を貸すことはできん。だが、商人だからこそ動ける場面もある」
「ありがとうございます」
「礼は要らん」
ガストンは軽く手を振った。
「長く商売をやっとると、人を見る目だけは鍛えられる。商人の勘というやつだ」
「ナルがお前さんを連れて来た時から、只者ではないと思っておった。今は、それを確信しておる」
レインは苦笑する。
「そこまで買っていただけるとは思っていませんでした」
「品物を見る目も大事じゃが、人を見る目を誤れば商会は潰れる。それで今日まで商売を続けてきた」
そこでガストンは口元を緩めた。
「それに、お前さんを支援した方が儲かりそうじゃ」
部屋に穏やかな笑いが広がる。
エレアは静かにそのやり取りを見つめていた。
噂には聞いていた。
ベルグ商会会頭ガストン。
西部方面を代表する大商人。
だが、実際に向き合ってみると、その器の大きさは噂以上だった。
利益だけで動く人物ではない。
かといって、情だけで商売をする人物でもない。
相手を見極め、損得を考え、それでも最後は自らが信じた者へ手を差し伸べる。長年、多くの人間と商売を続けてきた者だけが持つ度量が、その穏やかな笑顔の奥に感じられた。
ガストンは改めてエレアへ視線を向けた。
「そちらのお嬢さんも、大したものだな。レインに負けず劣らず、只者ではない」
エレアは穏やかに微笑み、一礼した。
「初めまして。エレアと申します」
「ガストンだ。よろしく頼む」
それだけで挨拶を終えると、ガストンは二人を交互に見た。
「今後、何かあれば直接ここへ来い。受付には話を通しておく」
机の上に置かれた小さな鐘を鳴らすと、ほどなくして一人の職員が部屋へ入ってくる。
「会頭」
「この二人が来た時は、俺に知らせてくれ」
「承知いたしました」
職員は一礼し、静かに退室した。
ガストンは満足そうに頷く。
「さて、積もる話もあるが、お前さんたちも今日は忙しいんだろう」
「この後、冒険者ギルドへ向かう予定です」
「なら、引き止めるのも悪いな」
レインとエレアは立ち上がる。
「それでは、また改めてご挨拶に伺います」
「ああ。いつでも来い」
ガストンは穏やかに笑った。
「ベルグ商会の門は、お前さんたちならいつでも開けておく」




