怪しい宿屋
ライゼン冒険者ギルドを出ると、夕暮れにはまだ少し早い陽光が石畳の大通りを照らしていた。
人通りは王都アルディアにも引けを取らない。
商人が荷車を押し、冒険者が武器を背負って歩き、異国の旅人たちが行き交う。聞き慣れない言葉まで飛び交い、この街が西部最大の交易都市であることを改めて感じさせた。
レインは街並みを見渡す。
「思っていた以上ですね」
「何がですか」
「街の広さです」
王都アルディアも大きな街だ。
だが、こちらは街全体が商いを中心に動いている。通りには商会や宿、飲食店が立ち並び、人の流れも王都とはどこか違って見えた。
エレアは小さく頷く。
「まずは宿を探したいところですが、その前に街の地理を頭へ入れておきましょう」
「宿より先ですか」
「ええ。初めて訪れる土地ほど、先に地形を覚えます。いざという時、どこへ逃げ、どこへ向かうか。それを知らなければ判断が遅れます」
「騎士学校でも似たことは教わりました」
二人は大通りを歩きながら、街の様子を頭へ刻んでいく。
中央広場。
商業区。
市場。
武具店や道具店。
交差点を曲がるたびに、エレアは自然と街道の向きや建物の位置を確認していた。
「この通りは北門へ繋がっています」
「こちらは」
「西区です。宿屋や飲食店が多いですね」
レインも周囲へ目を向ける。
人が集まる場所。
荷馬車が多い通り。
商人が足を止める広場。
一つひとつを頭の中で結びつけていった。
やがて賑やかな大通りを離れ、細い石畳の路地へ入る。
古びた酒場や古道具屋、小さな修繕屋が肩を寄せ合うように並び、歩いているのも地元の住民ばかりだった。
「こちらまで来る冒険者は少ないようですね」
「依頼帰りに立ち寄る者はいますが、観光客はほとんど来ません」
エレアは静かに続ける。
「ですが、こういう場所ほど覚えておく価値があります」
レインも頷いた。
表通りは誰でも歩ける。
だが、人目を避けて動く必要がある時、本当に頼りになるのはこうした裏通りだった。
さらに路地を進んだところで、エレアが足を止める。
路地の角に、一軒の宿が建っていた。
三階建ての古い石造り。
壁や看板には長い年月を感じさせるものの、玄関や窓枠は丁寧に手入れされている。
古い。
だが、荒れてはいない。
「入ってみましょうか」
レインは静かに頷き、二人は木製の扉を押し開けた。
扉の上の小さな鈴が澄んだ音を響かせる。
一歩中へ入ると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。
木の床や柱には年月が刻まれている。それでも床はよく磨かれ、壁や窓にも埃一つ見当たらない。
入口正面には木製の受付。
左手には食堂があり、宿泊客らしき数人が静かに食事を楽しんでいた。
店全体に落ち着いた空気が流れている。
「いらっしゃい」
低く穏やかな声が響いた。
受付の奥から姿を現したのは、六十代半ばほどの主人だった。
白髪混じりの短髪。
質素な服装。
どこにでもいそうな宿屋の主人だった。
だが、その姿を見た瞬間だった。
レインの目がわずかに細くなる。
隣のエレアも、一瞬だけ主人を見つめた。
言葉は交わさない。
それでも感じたものは同じだった。
――隙がない。
威圧感はない。
構えもない。
それでも、本能が「普通ではない」と静かに告げていた。
一方、主人も二人へ視線を向ける。
宿泊客を迎える穏やかな眼差し。
しかし、その視線はほんの一瞬だけ二人の全身を静かに見定めると、何事もなかったように柔らかな笑みへ戻った。
「泊まりかい」
「はい」
エレアが一歩前へ出る。
「長期で滞在できる宿を探しています」
主人は帳簿を開き、慣れた手つきで頁をめくる。
「長期か……」
小さく呟き、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「悪いな。空いている部屋は一つだけだ」
レインは思わずエレアを見る。
世界商談会までは、まだ三か月。
それでも部屋が一つしか残っていないという事実に、この街の活気を改めて思い知らされる。
主人は続けた。
「元は家族連れ向けの部屋だ。二人で使うには十分な広さだが、それでも構わないか」
「問題ありません」
エレアは迷わず頷いた。
「そうか」
主人は受付の横に掛けられた鍵を手に取る。
「じゃあ、案内しよう」
主人の後ろ姿を見ながら、レインが小さく呟く。
「……気付きましたか」
「ええ」
エレアも小さく頷く。
「ただの宿屋には見えません」
「私も同じ印象です」
それ以上、二人は何も言わなかった。
主人も振り返ることはない。
互いに何かを感じ取りながらも、誰も余計なことは口にしなかった。




