第94話 道連れ
夜が明けた。
森には薄く朝靄が立ち込め、焚き火の残り火から細い煙が真っ直ぐ空へ昇っている。
山は目を開けた。
眠れた気はしなかった。
目を閉じても、瞼の裏には皆の笑顔ばかりが浮かぶ。
それでも身体だけは、少しだけ軽くなっていた。
向かいでは雷姫が既に起きていた。
静かに火を見つめ、鍋へ湯を掛けている。
山が起きたことに気付くと、小さく視線だけを向けた。
「起きたか。」
山は無言で頷く。
雷姫もそれ以上は何も聞かなかった。
湯が沸く音だけが静かな森へ響く。
やがて木の器へ湯を注ぎ、一つを山へ差し出した。
「飲め。」
山は受け取り、少しだけ口を付ける。
温かさだけが身体へ染みていく。
言葉は無い。
だが、不思議と気まずさも無かった。
朝の支度を終えると、二人は再び歩き始めた。
街道は避ける。
黒曜も白蓮も、今はどこに兵がいるか分からない。
森の中を選ぶしかなかった。
山は前を歩く。
雷姫は半歩ほど後ろを付いていく。
しばらく歩いた頃、不意に雷姫が口を開いた。
「……これから、どうする。」
山は歩みを止めない。
「分からない。」
昨日と同じ答えだった。
雷姫は苦笑する。
「そうか。」
少し考えてから続けた。
「なら、とりあえず生きられる場所を探そう。」
「腹が減れば戦えん。」
「眠れねば考えることも出来ん。」
「今は、それでいい。」
山は返事をしなかった。
だが、否定もしなかった。
それだけで十分だった。
雷姫も、それ以上は何も言わない。
風が森を渡る。
枝葉が揺れ、木漏れ日が二人の足元を流れていく。
やがて小さな沢へ辿り着いた。
山は何も考えず、そのまま渡ろうとする。
だが足元の石が濡れていた。
身体が僅かによろめく。
その瞬間。
「危ない。」
雷姫が咄嗟に腕を掴んだ。
山は驚いたように振り向く。
雷姫も、すぐに手を離した。
「……すまん。」
「いや。」
短い言葉だけが交わされる。
互いに少しだけ気まずく視線を逸らした。
また歩き始める。
何も変わらない。
そう思っていた。
それなのに。
さっき掴まれた腕だけが、妙に温かく残っていた。
昼を少し回った頃だった。
森を抜けると、小さな街道が見えてきた。
人の往来は少ない。
それでも、久しぶりに見る人の気配だった。
山は足を止めることなく歩き続ける。
雷姫も何も言わず、その隣を歩いた。
やがて街道脇の茶屋が見えてくる。
軒先では、一人の男が煙管をくゆらせていた。
男は足音に気付き、ゆっくりと顔を上げる。
「……よう。」
山の姿を見つけると、少しだけ口元を緩めた。
「無事だったか。」
その視線が、隣を歩く雷姫へ移る。
男は目を丸くし、それから苦笑した。
「……驚いたな。白蓮の雷姫と山狐が並んで歩いてるなんて、世の中何が起こるか分からねぇ。」
雷姫はわずかに眉を寄せる。
「並んで歩いているだけだ。」
「そういうことにしとくか。」
情報屋は肩を竦めた。
山は何も言わず、その前へ立つ。
情報屋も表情を引き締めた。
「話は聞いてる。」
「蒼鷹と黒曜、それに白蓮まで絡んで、えらい騒ぎだったらしいな。」
山は小さく頷くだけだった。
以前なら、この男は真っ先に情報を求めた。
次はどう動くべきか。
敵は何を考えているのか。
そう尋ねてきた。
だが今日は違う。
何も聞こうとしない。
その顔を見ただけで、情報屋には十分だった。
余計なことは聞かない。
今は、その時ではない。
情報屋は立ち上がると、茶屋の主人へ声を掛けた。
「悪い。飯、二人分頼む。」
山は静かに首を振る。
「……悪い。」
「金がない。」
情報屋は鼻で笑った。
「そんなもん分かってる。」
「これまで何度儲けさせてもらったと思ってんだ。」
「今日は俺の奢りだ。」
山は少しだけ目を伏せた。
「……悪い。」
「気にすんな。」
「こういう時くらい貸しを返させろ。」
しばらくして、湯気の立つ汁物と握り飯が運ばれてくる。
二人は静かに箸を取り、黙々と口へ運んだ。
温かい汁が冷えた身体へ染み渡る。
山は久しぶりに、人の作った飯を食べていた。
食事が終わる頃、情報屋が湯飲みへ茶を注ぎながら口を開く。
「一つだけ。」
山は静かに顔を上げる。
「お前たちを追ってた鬼庭と蝶嶺だが、鷹司景冬が呼び戻したらしい。」
山の手が、わずかに止まる。
「理由までは掴めてねぇ。」
「ただ、もうこの辺りにはいない。」
少し間を置いて続けた。
「だが、それで全部引き上げた訳じゃねぇ。」
「鬼庭ほど執念深い奴だ。」
「配下の何人かは、お前を探して動いてる可能性はある。」
「道中だけは気を付けろ。」
山は小さく頷いた。
「……分かった。」
情報屋は今度は雷姫を見る。
「これからどこへ行く。」
雷姫は答えに詰まった。
白蓮へは戻れない。
蒼鷹へ向かう理由もない。
行く当てなど、最初から無かった。
情報屋は机へ広げた地図を指でなぞる。
「東へ抜けろ。」
「黒曜領の東端を回れば、その先は白蓮領の外れだ。」
「中心部を避けて街道を進めば、小さな村はいくつもあるから身を隠すには悪くねぇ。」
雷姫は静かに山を見る。
山はしばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……東か。」
情報屋は頷いた。
「生き延びろ。」
「先のことは、それから考えりゃいい。」
山は静かに立ち上がる。
雷姫も後へ続いた。
茶屋を後にし、二人は再び街道へ出る。
西日が長い影を地面へ伸ばしていた。
行き先だけは決まった。
東へ続く街道を、二人は並んで歩く。
その先に何が待つのかは、まだ誰も知らない。
ただ今は、歩みを止めないことだけが、生きている証のようだった。
(続く)
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