第93話 灯火
森の中を、二人は黙って歩いていた。
木漏れ日が揺れ、風が梢を渡る。
葉擦れの音だけが、静かな森へ溶け込んでいく。
山は何も見ていなかった。
ただ足を前へ出しているだけだった。
立ち止まれば、もう歩けなくなる。
そんな気がしていた。
やがて日が傾き始める。
雷姫は辺りを見回し、小さく息を吐いた。
「……今日は、この辺りで休もう。」
山は何も答えない。
近くの倒木へ腰を下ろすと、そのまま力が抜けたように動かなくなった。
雷姫は黙って枯れ枝を集め、小さな焚き火を起こす。
やがて火が安定すると、携えていた干し肉を山へ差し出した。
「食べろ。」
山はしばらくそれを見つめ、やがて受け取る。
一口だけ口へ運ぶと、それ以上は手を付けなかった。
雷姫も無理に勧めることはしない。
焚き火だけが静かに爆ぜる。
長い沈黙が続いた。
やがて、山がぽつりと口を開く。
「……俺が離れた。」
雷姫は静かに顔を上げる。
山は焚き火を見つめたままだった。
「俺が砦を空けた。戻るのも遅かった。水堀なんか作って、皆を働かせて……全部、俺が決めた。」
その声はひどく掠れていた。
「俺が決めたから、皆は動いた。」
「だから……全部、俺のせいだ。」
力なく笑う。
その笑みは、自分を責めるためだけに浮かんだものだった。
雷姫は静かに薪を火へ寄せる。
炎が小さく揺れた。
「私は事情を知らない。」
山は何も答えない。
「だから、お前を責めることも、慰めることも出来ない。」
少しだけ間を置いて、雷姫は静かに続けた。
「だが、初めて会った時から、不思議な男だとは思っていた。」
山の指先が、わずかに動く。
「戦えないと言いながら、誰よりも前へ出る。誰よりも自分を削って、仲間を守ろうとする。」
焚き火を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……あの時は理解出来なかった。」
「何故そこまでするのか。」
森を渡る風が、二人の間を静かに吹き抜ける。
「義信がお前のことを話していた。」
山の肩が、ほんのわずかに震えた。
「お前に救われた、と。」
「お前に会えたから前を向けた、と。」
雷姫は小さく微笑む。
「だから私は、その言葉を信じて山隊砦へ向かった。」
山は何も言わない。
義信の笑顔が脳裏に浮かぶ。
別れ際、真っ直ぐに自分を見つめていたあの眼差しだけが、不思議なほど鮮明だった。
雷姫は静かに続ける。
「砦で何があったのか、私は知らない。」
「だから、お前を責めることも、慰めることも出来ない。」
「だが、一つだけ知っている。」
「義信は、お前に救われた。」
「その事実だけは、消えない。」
焚き火が静かに爆ぜる。
山は俯いたまま動かなかった。
返す言葉は見つからない。
胸の奥に積もった後悔は、そんな簡単に消えるものではなかった。
それでも。
義信の笑顔だけは、少しだけ鮮明に思い出せた。
雷姫はそれ以上何も言わなかった。
今の山に必要なのは、励ましの言葉ではない。
無理に立ち上がらせることでもない。
ただ、独りではないと伝えること。
雷姫には、それだけで十分だと思えた。
夜は静かに更けていく。
焚き火だけが、二人の間を柔らかく照らしていた。
(続く)
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