第91話 失ったもの
森の中を歩いていた。
どこへ向かっているのか、自分でも分からない。
ただ足だけが止まらなかった。
落ち葉を踏む音だけが、静かな森へ小さく響いていく。
空は高く、風は穏やかだった。
まるで何事もなかったかのような景色だった。
その穏やかさが、今の山には耐え難かった。
瞼を閉じるたび、仲間たちの笑顔が浮かぶ。
焚き火を囲んで笑い合った夜も、泥だらけになって砦を作った日々も、酒を片手に馬鹿話をしていた時間も、昨日のことのようだった。
「終わらねぇ!」
そう叫んで皆が笑った日のことまで、鮮明に思い出せる。
あの場所には確かに皆がいた。
笑っていた。
生きていた。
それなのに。
最後に見たのは、動かない身体ばかりだった。
名前を呼んでも返事はない。
肩を揺すっても目を開けない。
守れなかった。
助けられなかった。
自分だけが、生き残ってしまった。
歩くたびに胸の奥が軋む。
あの時。
情報屋のところへ寄らなければ。
もっと早く煙へ気付いていれば。
砦へ戻るのが、あと少しでも早ければ。
そんな後悔ばかりが浮かんでは消え、また浮かぶ。
答えなどあるはずもない。
どれだけ悔やんでも。
どれだけ願っても。
失ったものは戻らない。
山は小さな沢の前で足を止めた。
水面へ映った自分の姿は、ひどく見窄らしかった。
泥に汚れた衣服。
乾き始めた血。
焦点の合わない目。
それは、もう自分の知っている自分ではなかった。
ゆっくりと木へ背を預ける。
全身から力が抜け、その場へ座り込んだ。
もう歩きたくなかった。
もう考えたくもなかった。
それでも頭の中には、皆の笑顔だけが浮かんでくる。
最後まで誰一人、自分を責めなかった。
「生きろ」
そう言って送り出してくれた。
だからこそ苦しかった。
皆の願いに応えてしまった。
皆を置いて、自分だけが生き残ってしまった。
風が静かに木々を揺らす。
葉擦れの音だけが、誰もいなくなった世界を包み込んでいた。
⸻
白蓮軍は崩れた。
整然と並んでいた軍勢は散り散りとなり、今ではその面影さえ残っていない。
雷姫は一人、馬を走らせていた。
背後を振り返ることはしない。
振り返れば、置いてきた者たちの姿しか見えないと分かっていた。
副将。
最後まで自分を逃がそうとしてくれた部下たち。
皆、戦場へ残してきた。
唇を強く噛み締める。
胸の奥では何度も同じ言葉だけが繰り返される。
(すまない……)
だが、生き延びろと言ったのは彼らだった。
その想いだけは無駄に出来ない。
だから前だけを見る。
鎧は土と血で汚れ、腕には浅くない傷が残っていた。
馬も疲れ切っている。
それでも歩みを止めなかった。
白蓮へ戻ることは出来ない。
街道は既に黒曜軍が押さえているはずだ。
戻れば捕らえられるか、討たれるか。
どちらにせよ終わりだった。
だから今、雷姫が向かう先は一つしかない。
山隊砦。
少人数で蒼鷹軍を退けた、不思議な場所。
そして。
そこには、あの男がいる。
戦えないと言いながら、誰よりも前へ立ち、誰よりも仲間を守ろうとしていた男。
雷姫は小さく息を吐いた。
(あの者なら……)
根拠などない。
助けてくれる保証もない。
それでも今、希望と呼べるものがあるとすれば、そこしか思い浮かばなかった。
木々の間を縫うように馬を進める。
森は静かだった。
鳥の鳴き声だけが遠くから聞こえてくる。
やがて前方に、一人の人影が見えた。
木へ背を預けるように座り込んでいる。
最初は、力尽きた旅人かと思った。
だが近付くにつれ、その姿が少しずつ鮮明になっていく。
泥に汚れた衣服。
乾いた血。
そして。
見覚えのある黒い布。
雷姫は思わず手綱を引いた。
馬が静かに足を止める。
そんなはずはない。
あの男は砦にいるはずだった。
ゆっくりと馬を降りる。
恐る恐る歩み寄る。
木にもたれた男は、俯いたまま微動だにしない。
雷姫は、その顔を覗き込んだ。
そして息を呑む。
「……山殿?」
(続く)
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