第90話 戦えない俺は見捨てて生き残る
山は森を駆けていた。
情報屋から聞いた話は、胸の奥に小さな棘のように残っている。
(考えすぎならいい)
そう何度も自分へ言い聞かせながら、足だけは自然と速くなっていた。
その時だった。
ふと視界の先。
木々の隙間から、黒い煙が立ち昇るのが見えた。
「……っ!」
山の表情が変わる。
あれは。
山隊砦の方角だった。
鼓動が一気に速くなる。
「まさか……!」
山は全力で駆け出した。
⸻
やがて。
砦が見えた。
門は開いたまま。
外柵の一部は焼け崩れ、黒煙だけが静かに空へ昇っている。
だが――
静かだった。
あまりにも静かだった。
「……迅?」
静寂だけが返ってきた。
「弥助!」
声だけが虚しく響く。
山は砦へ飛び込んだ。
そこに広がっていたのは。
倒れ伏す仲間たちだった。
弥助。
鉄。
迅の部下たち。
誰もが地面へ倒れたまま動かない。
「おい……」
山は弥助の肩を揺する。
「弥助」
返事はない。
鉄の身体を揺する。
「鉄!」
動かない。
「起きろ……」
声が震える。
「ふざけるな……」
返事は返ってこない。
静寂だけが広がっていた。
山の呼吸が乱れる。
何が起きた。
敵か。
病か。
分からない。
頭の中が真っ白になる。
その時だった。
刀がぶつかり合う音が響く。
「ガキィィィン!!」
その音を追って駆け抜けた先で。
山は息を呑んだ。
蒼鷹兵が何十人と押し寄せる戦場。
その中央で。
玄が鬼庭盛綱と刃を交えていた。
周囲には倒れた山隊の仲間たち。
まだ息のある者もいる。
だが。
一人、また一人と斬られていく。
「玄ーーっ!!!!」
山の叫びが響いた。
玄が一瞬だけ振り向く。
「……山か!」
鬼庭の刃を受け流しながら叫ぶ。
「玄!!」
「何があった!!」
玄は兵を斬り伏せながら短く答えた。
「新八だ!!」
「あいつが毒を回して蒼鷹を招き入れた!!」
山の思考が止まる。
「……っ」
「そ……そんな……」
鬼庭が豪快に笑う。
「余所見とは余裕じゃねぇか!!」
重い一撃。
玄が受け止める。
だが。
周囲の兵が次々と襲い掛かる。
完全な多勢に無勢だった。
玄は叫ぶ。
「山!!」
「お前だけでも逃げろ!!」
「何言ってんだ!!」
山も叫び返す。
「そんなこと出来るわけがないだろ!!」
玄は鬼庭を睨んだまま言い返す。
「ここでお前まで死んだら全部終わる!!」
「俺たちの意思を後へ繋げられるのは……」
「もうお前しかいない!!」
山の足が止まる。
玄はそれを見て歯を食いしばった。
「迷ってる時間はねぇ!!」
「急げ!!」
山は涙を浮かべる。
「っくそ……!」
「玄!!」
「絶対に……絶対に死ぬな!!」
山が走り出そうとした、その瞬間だった。
鬼庭の刃が横薙ぎに走る。
「甘ぇんだよ!!」
ズバァッ――!!
玄の脇腹が深く裂かれた。
「ぐっ……!」
「玄!?」
思わず山が振り返る。
玄は血を吐きながらも刀を構え直した。
そして。
山だけを見た。
「……振り返るな」
山の目が大きく開く。
玄は小さく笑う。
「お前は……前だけ見ていればいい」
「後ろは」
「俺たちが引き受ける」
山の頬を涙が伝う。
「玄……」
玄は再び鬼庭へ向き直る。
「行け」
「俺たちを無駄にするな」
その瞬間。
玄を取り囲んでいた蒼鷹兵が山へ向かって駆け出した。
「逃がすな!!」
玄が飛び込む。
「行かせるか!!」
ズバァッ!!
追っ手を一人。
さらにもう一人。
斬り伏せる。
鬼庭が口角を吊り上げた。
「隙だ」
ドッ!!
鬼庭の刃が玄の肩口を深く裂く。
それでも玄は止まらない。
山へ向かう兵だけを狙って刀を振るう。
「お前は……もう死んどけ」
最後の一人を斬り捨てた、その瞬間。
鬼庭の刀が玄の背を貫いた。
ズバァッ――!!
玄の身体が崩れる。
それでも。
最後まで山の方だけを見て叫んだ。
「走れぇぇぇぇぇっ!!!」
山は歯を食いしばる。
涙で前が見えない。
それでも。
走るしかなかった。
山は走る。
自分でも分かる。
今、どんな顔をしているのか。
涙で前は滲み。
呼吸は乱れ。
胸は潰れそうだった。
もう少し。
あと少しで砦を抜けられる。
その時だった。
前方へ、一人の女が立っていた。
黒い装束。
細身の体。
穏やかな笑みを浮かべたまま、逃げ道を塞いでいる。
「初めまして、山狐さん」
鈴を転がすような声だった。
「塚原様を討ち取ったそうですが……案外、大したことないんですね」
山は息を呑む。
女は小さく一礼した。
「私は蝶嶺忌那と申します」
「……ですが、その名は覚えなくて結構ですよ」
口元の笑みは変わらない。
「これから死ぬ人には、必要ありませんから」
「……ッ」
背後では怒号が近付いてくる。
急がなければ追い付かれる。
山は震える手で、なまくら刀を抜いた。
蝶嶺は小さく笑う。
「その刀で戦うつもりですか?」
山の手は震えていた。
怖い。
死ぬ。
それだけじゃない。
人を斬る。
自分には、それが出来るのか。
(……駄目だ)
(正面からやれば死ぬ)
山は歯を食いしばる。
次の瞬間。
蝶嶺の横を抜けるように、一気に駆け出した。
「あら」
蝶嶺は肩を竦める。
「お猿さんみたいですね」
山は抜けた――
そう思った。
だが。
次の瞬間には。
蝶嶺が目の前に立っていた。
刀が高く振り上げられる。
(駄目だ)
(死ぬ)
ガンッ!!
激しい金属音が響いた。
蝶嶺の刀が、大きく弾かれる。
「……!?」
蝶嶺が初めて目を見開く。
一本の矢。
その一撃で、蝶嶺の刀は弾かれていた。
山も振り返る。
孫六だった。
毒でまともに立つことすら出来ないはずなのに、それでも壁へ身体を預けながら長弓だけは握り締めていた。
孫六は苦笑した。
「旦那……」
「死んじゃ駄目っすよ」
山の目が揺れる。
孫六は少しだけ空を見上げた。
「……案外」
「ここの生活、悪くなかったっす」
そう呟くと。
力が抜けるように、その場へ崩れ落ちた。
「孫六ーーーッ!!」
山の叫びが響く。
蝶嶺は舌打ちした。
「……ちっ」
「死に損ないが」
すぐに後ろへ命じる。
「逃がすんじゃないよ!」
「追え!!」
蒼鷹兵たちが、一斉に山へ向かって駆け出した。
山は涙で滲む視界のまま、再び走り出した。
山は走る。
もう足音はすぐ後ろまで迫っていた。
(追い付かれる……!)
その時だった。
前方から、一つの人影が飛び出してくる。
「……!」
新八だった。
山の目が見開かれる。
「お前ぇぇぇぇっ!!」
怒りが喉を裂く。
裏切られた。
仲間を。
砦を。
全部失った。
その怒りをぶつけるように叫ぶ。
だが、新八はそのまま山の横を駆け抜けると、追って来る蒼鷹兵たちの前へ立ちはだかった。
震える足。
それでも、一歩も退かない。
「山さん!! 行ってください!!」
山が思わず足を止める。
「……!?」
新八は背中を向けたまま叫ぶ。
「ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……! 俺、もうどうしたらいいのか分からなくて……取り返しのつかないことをしてしまいました!
謝って済むことじゃないって分かってます!
でも……もう俺には、これしか出来ないんです!!」
山は何も言えなかった。
怒りも。
悲しみも。
悔しさも。
全部が胸の中で渦を巻き、言葉にならない。
新八は最後にもう一度だけ叫ぶ。
「だから……山さんだけは、生きてください!!」
背後では無数の足音が迫る。
もう時間はない。
山は唇を噛み締めた。
「……新八」
その名を呼ぶことしか出来なかった。
礼も。
許すという言葉も。
何一つ言えない。
山は再び走り出す。
一度も振り返らずに。
⸻
その直後。
蝶嶺忌那を先頭にした蒼鷹軍が追い付く。
蝶嶺は新八を見ると、小さくため息を吐いた。
「どきな。もう、あんたの役目は終わりだよ」
新八は震えながら首を横へ振る。
「……行かせない」
蝶嶺は呆れたように笑う。
「ほんと馬鹿な男だね。せっかく山狐どもを潰すきっかけを作ったんだ。お前だけは見逃してやろうと思ってたのに」
新八は震える足で立ち続ける。
「俺はぁぁぁっ!!」
蝶嶺は興味を失ったように部下へ視線を送った。
「あー、五月蝿いね」
「やりな」
その一言だった。
複数の兵が一斉に槍を突き出す。
ズブッ。
ズブッ。
ズブッ。
新八の身体が何度も貫かれる。
血が溢れる。
膝が震える。
それでも倒れない。
(母ちゃん……)
幼い頃。
畑で転んだ自分を抱き起こしてくれた。
「新八」
「痛かったねぇ」
笑いながら頭を撫でてくれた。
あの温かい手。
(ごめん)
(守りたかったのに)
(俺……何も守れなかった)
涙が一筋、頬を伝う。
それでも。
新八は最後まで、遠ざかっていく山の背中だけを見つめていた。
震える唇が、最後の言葉を紡ぐ。
「……い……」
「……いがせ……な……」
最後まで言い切ることは出来なかった。
新八の身体が、その場へ崩れ落ちる。
蝶嶺はそれを一瞥すると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ちっ……まぁいい」
「十分な成果だ」
そう呟き、踵を返した。
山は振り返らなかった。
振り返れば。
もう二度と。
前へは進めない。
仲間を。
居場所を。
全てを見捨てて。
山は、生き残った。
誰よりも望まなかった形で。
誰よりも嫌だった形で。
それでも。
生きるために。
ただ、生きるためだけに。
山は走り続けた。
泣くことも。
立ち止まることも許されないまま。
そして――
戦えない俺は、見捨てて生き残る。
(続く)
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